高校の同級生がニート系YouTuberになっていた件について

前置き

 まずはこの動画を見ていただきたい。


www.youtube.com

 筑駒(筑波大学附属駒場中学校・高等学校)という、日本で最も受験偏差値が高い国立中高一貫校(併設型)には、あまりにも「個性的」な同級生たちがいたという、ただそれだけの内容である。当然、筑駒について何も知らない人が見れば、「筑駒ってヤバいな」くらいの感想を持つのが普通で、せいぜい「動画主は筑駒でも相当ヤバいクラスにいたんだな」くらいが関の山だろうか。この動画を見ただけで、彼をチャンネル登録するかどうかは、客観的に見ればだいぶ微妙なところだろうか。

 しかし、私はこの動画を見て、迷わず彼のYouTubeチャンネルのチャンネル登録ボタンを押した。とはいえ、そもそも私自身、YouTuberのチャンネルなどそこまで積極的に登録しない方である。そんな私がなぜ彼のチャンネルを登録したか。それはこの動画自体が、自分の過去の記憶そのものを嫌というほど思い起こさせたからである。

www.youtube.com

 ここまで書いてきて、勘の良い人はもう気づいたかもしれないだろう。私はその動画主の高校時代の同級生、つまり筑駒のOBだったからである。そもそも、この動画を紹介されたのはその筑駒の同級生のグループLINEからである。そこで「誰だろう?」と思って、彼のチャンネルから彼のnoteにたどり着き、そこで彼がまさに自分の同級生の一人そのものであることを確信したのである。そもそも、最初の動画に出てきた3人のうち、少なくとも2人は当時の自分と何らかの形で濃密な接点があったのを思い出したということが、彼について深く調べるきっかけだった。そこから調べていくうちに、自分も彼自身と高校生当時*1にとある形で関係を持っていたことに至ったというのが結論である。

note.com

本論

 というわけで、早速本題に入らせていただきたい。彼は動画やnoteでさんざん「自分は筑駒の落ちこぼれで、最後はニートになった」と語っている。確かに、彼自身が証言している筑駒時代の彼の実態を振り返って客観的に評価すれば、彼が筑駒という「東京の頭脳の特異点」ともいうべき領域で落ちこぼれ、社会からもドロップアウトしていったのも残念ながら当然と言わざるを得ないだろう。しかし、自分にはこの事実がどうも受け入れがたいのである。

 彼はYouTubeやnoteでも述べているように、23区で最も平均所得が低い足立区で、その中でも特に学力水準の低い層が多く集まる校区の、両親ともに高卒の家庭で生まれ育った。つまり、彼は一般的な筑駒中学合格者の平均像とは大きくかけ離れたバックグラウンドを持つという意味でも、本来なら筑駒どころか中学受験そのものすら有り得ないような家庭環境に突然変異のごとく生まれてしまったという意味でも「外れ値」だったのである。そして、この「彼は家庭環境の意味でも筑駒生の平均という意味でも外れ値だった」という事実こそが、「彼が筑駒で落ちこぼれたのも当然」という、世間一般の人間が持ちうる認識を私に拒ませる最大の理由だと思っている。

 どういうことなのかというと、かなり乱暴な言い方になるが、彼はそもそも「筑駒に入っていい『身分』などではなかった」ということである。ここで「身分」という、私としては使うのも物憂い前近代的な概念をわざわざ持ち出すに至ったのだが、これは「一般的な日本社会においては、99%の人間は本人の才能や素質に関係なく、同性の親の生き方をなぞることしか許されない」という、あまりにも残酷な現実が前提として存在するからである。平たく言えば、開業医の息子は開業医に、そして彼のような高卒労働者の息子は高卒労働者になるのが、少なくとも今の流動性の低い日本社会においては最も現実的なルートであるということである。

 ここまでの私の主張をただ述べただけだと、読者から「それはあなたが安全圏から一方的に見下しているだけだろう」と反論される可能性も十分にあることは想定済みである。だからこそ、自分がその主張に至った理由も述べたい。かくいう私自身も、中学入学組か高校入学組かという違いはあれど、十分「外れ値」だと思っているからであり、そして今現在自分もまたニートとまでは言わずとも、普通のキャリアプランからは完全にドロップアウトしてしまっているからである。そしてこの事実をもってして、この「身分」論の裏付けとしたい。

 実を言えば私自身もまた、彼ほど極端ではないにせよ「平均的な筑駒生の家庭の描像」とはかけ離れた家庭で育っている。足立区で両親共に高卒家庭という極端な例ではないにせよ、父親は地方の公立トップ校から地方旧帝理系院卒でIT系の中小企業を転々としており、育ての母親もまた東京都心部育ちとはいえ地方の公立2番手校から当時のそこそこ有名な女子大を経て出版業界を転々とした末にフリーライターとして独立したという、世間一般の評価で見ればかなりの年収を稼いでいるとはいえ、決して実家が太いとまでは言いがたい家庭である(それでも渋谷区の北辺にマッチ箱3階建て住宅を建てられるほどの経済力はあったが)。おまけに、義理の姉*2に至っては、育ての母親の頭脳をまともに受け継いだとは言い難い、都内の中堅私立高校から私立のFラン薬学部(それでも薬学部である以上、名前さえ書けば受かるというほどではない)という経歴である。こんな家庭の中で、自分だけがたまたま「筑駒に高校入試で受かってしまえる」だけの頭脳を持ち合わせてしまったということが、私に「彼は落ちこぼれるべくして落ちこぼれたわけではない」と思わせる最大の理由である。

 では、私がそう思うに至った理由は何か。それは、私の中にある「人間は分不相応なものを手に入れたり、分不相応な願いを叶えたりするとかえって破滅する」という薄っすらとした経験則によるものである。そして、その経験則の範囲においては、私とあの動画の彼は完全に同類だと言えるだろう。そもそも私自身、中学2年生の終わり頃までは、筑駒という学校の存在自体を知らず、転校して入った都内の公立中学校を卒業したら、そのまま都立のトップ校である日比谷あたりに入れば十分とばかり思っていたのである。そんな私が、当時やっていた無料の大手塾の模試を受けた結果、塾講師の口車に乗せられて(?)、あれよあれよという間に国立で授業料が安かった筑駒を第一志望に据え、見事受かってしまったのである。ちなみに、私は開成や慶應志木、渋幕も受けて全勝しているのだが、もし筑駒に落ちたら「うちは金が無いから」という理由で日比谷を受け*3、そこに受かったら日比谷に行き、それでもダメなら開成というつもりだった。それくらい、親も自分も、心の中では「筑駒など本来は分不相応な場所である」と認識していたのである。

 その後の筑駒での自分は、確かに学校内ではやや浮いていた感が否めないが、それでも自分としては筑駒という空間に何とか適応しようと藻掻いていたのは事実である。でも結局、高校入学組ということを考慮しても、最後まで平均的な筑駒生が持ち合わせている「文化資本」とやらにはアクセスできなかった。

 それでも結局、現役で東大に合格したはいいものの、その後何やかんやあって2年留年し、卒業後も正社員としての就職自体に失敗し、長年続けてきたアルバイトも辞めて大阪に2年ほど飛び出すという、世間体だけを考えれば完全なる「転落」人生を歩んでいる。それを振り返れば、あの動画の彼がニートにまで「落ちぶれた」のも、決して彼が怠惰で社会適応力が低かったからとは言えないと思うというのが結論である。現に彼のnote記事は、決して筑駒にまぐれで受かったとは思わせないほどの思考力をいかんなく発揮した、精度の高い文体であると思っている。

その後

 ここまで「彼が筑駒で落ちこぼれ、その後ニートにまで落ちぶれたのは、彼が筑駒に入るべき『身分』などではなかったからある意味では当然の成り行きである」という、動画の主の彼にとっては失礼極まりないレベルの暴論を展開してしまった。しかし、この論を展開するのは、彼自身に失礼であるという意味も含めて、極めて血反吐を吐くようなつらいものであったと言いたい。

 自分が「身分」論を持ち出すのがつらいと思うのは、それが結局はStatus Quo(現状維持)の正当化に過ぎないからだと自分自身で認識しているからである。福岡伸一氏も言っていたが、現状維持とはエントロピー増大の果てにある緩慢な死を認めることと同義であり、それに抗うのが生命活動であるという明確な見解が私にはある。Status Quoの正当化は、その見解と真っ向から矛盾するのは言うまでもないだろう。現状を突き抜けた先に未来があるはずである。それが温かい血の通った人間社会である以上は。そう書いて今回は終わりとしたい。

*1:私は彼とは異なり、高校から筑駒に入学した生徒であった。

*2:育ての母親の連れ子で、誕生日でいえば自分とは半年しか離れていないが1学年上である。

*3:実際は筑駒に受かったので日比谷は受けてすらいない。

藝術の社会的意義について

本記事の概要

 藝術に求められているのは、単純な言葉の羅列では決して表現できない、複雑にして深遠なメッセージを、端的かつ印象的に社会に訴えかけ、我々の心を動かすことである。そして藝術表現という「発信」に対し、社会の方も、今ここに内在する諸問題の解決へと向かうという形でそれに応える必要がある。人間は藝術が無くとも死にはしないが、藝術が無ければ生きていけないのもまた事実である。

藝術の存在意義とは?

 藝術とは何のために存在するのだろうか。とはいえ、まずは「藝術」の指し示す領域を定義する必要がある。よく「◯◯は藝術であるが、△△は藝術ではない」などと「藝術」と「非藝術」の間に何らかの線引きをする人はいるが、私は「藝術」という近代日本語の原語にあたる「art(アート)」に着目して考えたい。すなわち、artと呼べるものはすべて藝術であるという立場でこれからの議論を進めたい。
 さて、藝術 (art) とはいったい何だろうか。ここで、artという単語の本来の意味である「人間の技」と、そこから発展した「美的な技術」という意味に着目して考えたい。すると、藝術というのは非常に幅広い表現や技術を包含し、その中で「美しい」と人に思わせるような、そういう特質を備えたものであると考えることができる。すなわち、大雑把な分類でも、絵画や彫刻、建築、造園から、文藝や音楽、演藝、映画、アニメ、服飾デザインといったものに至るまで、それら全てが「藝術」と呼びうるものである。こんなことを言うと、「藝術に詳しい」自称評論家から「何でもかんでも藝術と呼んでいいわけではない」というようなお叱りが飛んでくるかもしれない。しかし、そういう批判は全くもって見当違いもいいところである。勿論私は藝術に関する専門教育を受けた身ではないし、所謂世間で言う藝術そのものに深く親しんできた生育環境にもないので、そういう評論家ふぜいからは「藝術に関してはズブの素人のくせに」と思われても仕方ないかもしれない。だが、藝術と「非藝術」の間は、それが属するジャンルによって画一的に線引きされるようなものではない。
 私が言いたいのは、藝術と「非藝術」を分けるのは「社会的なメッセージを訴えかけるような何かを内包しているかどうか」という、ただ一点であるということである。先程、ありとあらゆるジャンルの創作活動が藝術と呼びうるものであると書いたが、藝術と呼びうるものであることと、藝術であると言えることは別の概念である。一つの例を挙げると、漫画は藝術の一ジャンルではあるが、全ての漫画が真に藝術と呼べるようなものであるとは限らないということである。
 そのうえで、改めて藝術の存在意義について考える必要がある。ここで、藝術とは(所謂美的なものに限らず)社会的なメッセージを訴える表現(パフォーマンス)であるということを述べたが、その論に立つならば、藝術の存在意義とは、我々が今生きているこの社会にとって、重要な何かを訴えかけるための手段であるということになる。より深く掘り下げると、藝術というのは、我々が日常で用いる言葉の羅列だけではとても言い表せないような、複雑かつ深遠なメッセージを社会に訴えかけるための表現であると言える。ポーランドが生んだ偉大な作曲家であるショパンは、作曲と演奏という形で、失われた祖国ポーランドを楽譜と旋律の上に蘇らせた*1わけだが、それこそがまさに「藝術」の精髄と言えるものであろう。
 勿論、藝術とはその内包するメッセージが正しく人に伝わってこそ、「藝術」として世に受け入れられるわけだが、そのためには象徴的かつ印象的な表現であることが必然的に求められる。言うまでもなく、人に伝わらないメッセージはメッセージの意味をなさず、やがては人に忘れ去られる。今でこそ我が国を代表する文化藝術の一つになったコスプレも、元々は一部の趣味者の間で細々と楽しまれる娯楽に過ぎなかった。そんな状況を一変させたのは、偏にコスプレ界の偉人であるえなこ氏の、コスプレという表現にかける真摯なメッセージ(アニメや漫画の世界を現実世界に印象的に具現化し、ファンの心を掴もうという思い)とその発露たる諸々の活動や表現があってのことである。
 すなわち、藝術とは単純な言葉の羅列では決して言い表せない、複雑で繊細なメッセージを、印象的な形で我々に伝え、我々の心を動かすために存在するものである。言い換えれば、これら全ての要素を一つでも欠いているものは、本当の意味で藝術とは言えず、それ故に後世に伝わらないだろう。

社会は藝術にどう向き合うべきか?

 さて、ここまで藝術の存在意義について述べてきたが、社会が藝術に対してどのように向き合うべきかについても、共に考える必要がある。先程、藝術は社会に対し重要なメッセージを訴えかけるためのものであると結論付けたが、藝術表現が訴えかけるメッセージに対し、社会の側もまたそれに応える必要がある。すなわち、藝術は社会に受け入れられて初めてその役割を果たすことになるが、社会の側も藝術というメッセージの発信を正しく受け入れることで、その社会が抱えている問題を解決へと近づけられるということである。
 では、社会が藝術に向き合い、内在する問題を解決する方向に向かうとはどういうことだろうか。それはすなわち、社会が藝術を受け入れ、育み守ることにより、藝術の持つ力を社会の構成要素として取り込むことに他ならない。もっと言えば、社会が藝術を受け入れるというより、社会が抱えている問題に対し、藝術(すなわち表現者)のほうから藝術表現というメッセージを投げかけるという言い方のほうが適切かもしれない。それにより、何らかの構造的問題を抱える社会が、藝術という強烈なメッセージ性をもつ表現に感化され、その社会自体がもつ強みと合わさり、問題を克服するという流れこそが重要であると言えるだろう。
 先程の主張に関する象徴的な具体例としては、瀬戸内国際芸術祭(以下瀬戸芸)がその筆頭に挙がるだろう。香川県と岡山県に跨って、3年に一度開催されるこの一大藝術イベントは、両県の代表都市である高松市と岡山市を主な拠点として、直島や豊島(てしま)を中心とした瀬戸内海の離島や、瀬戸内海沿岸の農漁村地域に多くの現代美術の作品が展示され、海外からも含めて多くの観光客が訪れるイベントである。ではなぜこの「瀬戸内」で開かれる必要があったのだろうか。これこそが私の主張したいことである。
 香川・岡山の両県に跨る瀬戸内海は、古くから豊かな漁場として、また多くの船で賑わう交流の大動脈として独特の文化を育んできた。しかし、戦後の陸路を中心とした国土開発政策に伴い、従来の海による繋がりが軽視されるようになると、この地域は一転して交通不便な僻地と見做されるようになり、深刻な過疎化に見舞われるようになった。また、直島では当時島を支えていた金属工業の発展が頭打ちになる一方、工業生産に伴って島の自然が損なわれる事態に苦しんでいた。同様に、豊島では産業廃棄物の不法投棄に悩まされ、過疎化も相まって「ゴミの島」という風評被害を受けるようにもなった。すなわち、当時の瀬戸内エリアは、このような「課題」を多く抱える一方、古くから地域の豊かさを支えてきた「海」のポテンシャルがなお残る地域でもあった。
 この瀬戸内に目をつけたのが瀬戸芸の総合アートディレクターを務める北川フラム氏である。彼は「海の復権」という強烈な、しかし過疎に悩む瀬戸内の島々にとっては核心を突いたコンセプトを掲げ、瀬戸芸を実際に開催し、藝術イベントとしても、地域交流のイベントとしても見事成功に導いた。現代美術というのはその抽象度と概念性の高さ故に、俗に言う一般人にはとっつきにくいところがあるのも事実ではある。しかし、北川氏は「海の復権」という明確な概念を掲げ、地域社会に実際に暮らす人々に歩み寄りながら、作品を会場となった島や集落の至る所に展示し、それらが地域の象徴として地元住民や観光客の印象に残るようにプロデュースすることで、現代美術が持つ「可能性」を最大限発揮し、ひいては地域が持つ文化のポテンシャルを最大限引き出すことに成功した。まさにこれこそが、社会が抱える問題に藝術が向き合い、作品としてメッセージを発信し、社会がそれを受け止めて変わるという一連の流れとして、最も成功した例に他ならないのである。

藝術と人間の関係に求められるのは?

 最後に、藝術と人間の関係として望ましいのはどういう関係だろうか。藝術そのものは、人間が生命活動を続けていくために必要不可欠なものではない。しかし、人間ははるか昔の先史時代から、藝術を求め続け、今に至っている。つまり、人間は人間社会の中で情操を育み、その中で藝術を求める感情を育むと言える。そういう意味で、藝術は人間が人間らしく生きていくために必要不可欠なものであると言える。
 ここで、通俗的な表現ではあるが「推し」という言葉について考えてみたい。「推し」とは、元々我が国のアイドル文化から生まれた概念であるが、その表現にはどことなく「生き甲斐」というニュアンスを含んでいる。勿論「推し」や「推し活」そのものは自らの生業に直接貢献する存在ではない。しかし、「推し」がいるからこそ、日々の暮らしをより楽しく営み、己の生業に一生懸命励めるのも事実である*2。実際に、「推し」という概念は日本語のみならず、各国語の近い表現を借用して全世界に広まっているわけで、これこそが藝術の本質――自らの生命活動のためではなく、人間としての生活のための心の栄養剤――に他ならないと私も考えている。
 まとめると、藝術とは我々の人生を人間らしくするためのスパイスであり、料理で言う「出汁(旨味)」に相当するものである。旨味成分そのものは所謂栄養ではないが、旨味がない食生活が我々にとって恐ろしくつまらないものであることは想像せずともわかることだろう。そして、藝術表現を自らの生業として志す者は、この藝術と人間との絶妙な関係を忘れてはならない。それこそが藝術を藝術たらしめ、後世に繋げて残す唯一の道であるからである。

*1:その後、独立を回復したポーランドは、ピアニストのパデレフスキを初代大統領に迎えた。その意味で、ショパンは実質的な「ポーランドの国父」とも言える。

*2:だからこそ、近年の一部界隈に見られるような、己の生業や家族といった自分自身の生活そのものを切り崩すような「推し活」には嫌悪感を抱くし、言うまでもなくそういうものは藝術を名乗るに値しない。

箴言集(2025年9月版)

前置き

 最近まともにブログ記事を書けていなかったし、それに現時点ではまとまったブログ記事のネタにできるようなものも持ち合わせていない。というわけで、今回は今までのしっかりした内容のブログ記事ではなく、それこそツイッター(現X)で書けるような、短い文章を集めてブログ記事を書くことにする。個々の文章同士に内容面で特に繋がりがあるわけではないが、それでも内容の近い文章は極力近くにまとめて書くことにしたい。

本編

  • 発達障害という単語を「雑に」使うべきではない。Xで言及されている「発達障害」問題のうち少なからぬ割合が、本質的には発達障害(自閉症スペクトラム障害、注意欠陥多動性障害、学習障害など)とは無関係な、どちらかといえば軽度知的障害(境界知能)の問題であるからだ。さらに、それらを差っ引いたところで、生きづらさの原因を「発達障害」に矮小化するような姿勢はいずれにしろ不誠実と言わざるを得ない。
  • 世間で言う「発達障害」に関する諸問題の9割は「日本型雇用」の問題である。この前提を踏まえていない議論は全て片手落ち。
  • 適職診断で「芸術家」や「クリエイター」と出たことを誇りに思おう。社畜の適性なんかがあったところで、金以外には何のメリットもない。
  • 日本型雇用とは、本質的には会社という「箱」を使って資本主義に体よく誤魔化した「国家会社主義」に過ぎない。そしてこんなものは本来の意味で「日本的」であるとは言えない。ましてやこれこそが日本の伝統的価値観に合った社会制度だというのは、全くもって本邦の歴史に対する事実認識を欠いた愚かな主張でしかない。
  • エリートサラリーマンなんかを持て囃す風潮ほど汚らわしいものはない。金こそ沢山稼いでいるが、所詮は労働者階級の頂点に過ぎないからだ。
    もっと言えばそのような風潮を一言で「拝金主義」と言い、古今東西拝金主義は軽蔑されてきた。金(貨幣)は所詮「トークン」に過ぎず、それ自体に価値があるわけではないということすらわからない愚か者が拝金主義者であることを考えると納得できるだろう。
  • 恋愛とは、本来もっと抒情的で高雅な営みである。そして、そのような品格を伴う恋愛は、まさにS.スマイルズの言う通り、人生の永久的な音楽として、青年には希望を与え、老人には後光を与えるものである。
    残念ながら、今の日本、狭く見積もっても東京で言う「恋愛」とは、このような美しいものではなく、商業主義的な、もっと言えば拝金主義そのものの文脈に汚染された汚らわしいものでしかない。そして「恋愛」をこのように汚したのは言うまでもなく電通・東京キー局を中心とするマスメディア・出版業界である。
  • ステーキの上にウニを載せたり、大トロに金粉をまぶしたりして、いかにも高級感でインスタ映えだけを狙ったような、品性のかけらもない料理が持て囃されるのが東京、特に港区界隈である。そしてこのようなゲテモノを北海道の観光地でもインバウンド向けに売り出しているとなると、本当に暗澹たる気持ちになる。
    少なくとも、アイヌ民族や朝鮮民族は斯様に愚かではない。
  • 零細事業者保護は経済における万病の元。資本集積によるスケールメリットは、ある程度までならあらゆる産業に有効である。
    もちろん過度な集積は寡占を招き消費者に不利益をもたらすおそれがあるが、少なくとも今の日本の農林水産業および医療介護業界はそれ以前の問題である。もっと言えば製造業や都市開発における地権者問題についても同様である。いつまで情けない土豪の真似事をしているのか?
  • 世のアンチフェミ論客の多くが言っていることは性犯罪者が己の蛮行を正当化するために「弱者男性」という肩書きを悪用して己を正当化するための詭弁に過ぎない。まさしくイスラム教の本来の教えを歪めて自らの欲望のためにイスラムやアッラーフを持ち出す野蛮なゲスラム破戒外道移民と構造的にはそっくりである。
    私が所謂ツイフェミや彼女らの主張に賛同することは基本的にほぼ無いが、アンフェ連中はそれ以下の存在である。願わくは両者で対消滅してくれと思っているのだが、少なくともツイフェミのほうにまだ理があることを考えるとそれも難しいだろう。
  • 与謝野晶子ほど過小評価されている偉人はいないだろう。情熱と反戦を歌った明治の女流歌人としての評価は言うまでもないが、それ以上に自由主義フェミニズムの祖としての功績はもっと評価されるべきである。今の我儘なツイフェミを天国の彼女が見たらどう思うだろう?
    日本のフェミニストの祖として平塚らいてうや市川房枝を日本史の教科書で取り上げるくらいなら、その分の時間で与謝野晶子のフェミニズムを取り上げたほうがまだ有意義である。前者は日本に害悪しかもたらさなかったが、後者は日本に持続可能な未来をもたらすはずだ。
  • どんなに馬鹿にされても、綺麗事を言い続ける勇気を持とう。ゴールは現状の先にのみある。そしてそのゴールへ向かうには綺麗事が必要不可欠だ。
  • 国家とは安全保障の主体であって、決して経済活動の主体ではない。少なくとも現代において、経済活動の主体は都市である。

バカとの闘い (2025年7月版)

前記

 前回記事の公開から2ヶ月近く開いてしまったが、この間に筆者の私生活上においては長年勤めてきたとある大手学習塾を退職するという大きな変化があった。また、その後筆者は30歳の誕生日を自ら祝う目的で、6月末に大阪万博に来場し、数多くのパビリオンを観覧した。その際の感想については、また別のブログ記事などにまとめようと思っている。

 一方、この2ヶ月近いブログ執筆の空白の間に、日本政治は大きく揺れ動いた。6月22日には東京都議会議員選挙、そしてその1ヶ月後にあたる7月20日には参議院議員通常選挙が行われたわけだが、その結果はいずれも既存の政治的秩序を揺るがしかねないものであった。詳しい分析はそれを専門とする方々に任せるとして、私なりに考察をまとめるとすると、「今の日本政治は、特に東京を中心としてポピュリズムが蔓延している」という結論を挙げたい。そして、今後の日本の民主主義は、好むと好まざるにかかわらず、ポピュリズムとの闘いを意識しなければならないと私は考えている。

本論

 そういうことなので、本記事では「ポピュリズムとの闘い」、すなわち「バカとの闘い」について考えたい。先程筆者は「ポピュリズムとの闘い」と書いたが、本質的には記事タイトル通り「バカとの闘い」だと考えている。ある意味では非常に扇動的でセンシティブなこの記事タイトルは、故・勝谷誠彦氏の同名の書籍に着想を得てつけたものであるが、実のところ本当は「バカとつき合うな*1」という方が個人の生活における精神衛生上は望ましいのも事実である。とはいえ、民主国家においては、どんなバカでも賢人と等しく一票の参政権を持っているわけで、現実の政治に関わる以上「バカとつき合わない」というのは極めて非現実的であり、それどころかバカを放置すると国が傾くのは避けられないと言っていい。ゆえに、「バカとの闘い」は民主国家を運営するにあたって不可避なものとなる。

 ここで、民主主義という前提を無視するならば、そもそもバカの政治参加を不可能にすればいいという声も上がってくる。こういう哲人政治を良しとする主張にも一応理はあるのだが、そもそも政治に参加するのに相応しいとされる賢さを測る明確な指標はいまだかつて存在せず、その時点で非現実的と言わざるを得ない。それに、このような哲人政治(メリトクラシーに基づく寡頭制)の欠点として、その「賢人」が道を誤らないことを保証できず、その誤りを民衆が簡単に正せないという点もある。だから、バカとの闘いを考えるとしても、民主主義という前提は維持しなければならない。

 そうなると、結局は「国民一人ひとりが慎重に考えて、責任を持って参政権を行使しなければならない」という在り来りな結論に至るわけだが、それで終わりならわざわざこの記事を書く意味がない。第一、バカは慎重に考えて政治的行動を起こさないからバカなのであって、その現実に目を向けない以上先程の結論はどう足掻いても空理空論に過ぎなくなる。バカと闘う立場である賢明な当ブログの読者の諸兄諸姉は、(政治的)バカとはどういう行動原理でどういう政治的選択をするかをしっかり認識しなければならない。敵を知ることこそが戦いの始まりである以上、まずは「バカとは何者か」を把握しなければならないのは言うまでもない。そのために、筆者なりにバカの特徴について考えたい。

 さて、政治的な文脈における「バカ」の特徴について考えると、第一の特徴としては、極めて近視眼的な視野でしか物を考えられないという点が挙げられる。実際、バカが熱狂的に支持するポピュリストは、短期的な利益が得られるようなバラマキ政策を掲げ、バカの支持を得ることに成功している。そして何より、バカはこれから生まれる次の世代のことはおろか、自分自身の10年後すらまともに考えていない。そしてそれ故に、長期的な視野に基づく財政規律論には全くといっていいほど耳を傾けないし、(本当は長期的に見て利益をもたらすのに)自らに短期的な痛みをもたらすと考えるような政策には真っ向から反対するわけである。

 次に、バカの第二の特徴として、バカは己の信じたいナラティブ(物語)のみを信じて行動するという点を挙げたい。何故ならバカは自分に都合の悪い事実を客観視できないし、それ以前に事実を元に論理的に考えられないからである。そんなバカにとって、共感しやすいナラティブを拡散してくれる煽動者ほど有難い存在はない。そして、それは煽動者の側からしても同じである。エコーチェンバー効果というのはSNS時代になって広く知れ渡るようになった現象だが、これらの理由によりバカはこのエコーチェンバーに嵌りやすい。そして、それ故に煽動者からしてみてもバカはありがたい存在なのである。

 そして何より、バカの特徴の最たるものとして、バカは定見を持たず周りに流されるしかできないという点を挙げたい。自民党であれ立憲民主党であれ日本維新の会であれ、政治をまともに考えている人は何らかの定見があってそれを元に政治的選択を下すわけだが、残念ながらバカにはそんな芸当はできない。勿論、特定の支持政党が無くて、前は自民に入れたけれども今回は国民民主に変えたというような人でも、きちんと定見をもって判断したのであればそれはバカとは言えない。本当のバカは、何となくXやTikTokで流行ってるからとか、何となく今の政権与党は嫌だからとか、そういう理屈とも言えないレベルのくだらない理由で風任せに参政権を行使する。

 まとめると、私なりに考えた「バカ」の特徴は以下のようになる。

  • 近視眼的、即物的な視野でしかものを認知できない
  • 自分の信じたいナラティブ(物語)に反するファクト(事実)を直視できない
  • 筋の通った価値観でものを考えられず、専ら周囲に同調することしかできない

こんな輩が選挙権を行使し、とてもまともとは言い難い政治家を当選させてしまうのが今の日本である。投票率が上がらないことを嘆く「意識の高い」人は多いのだが、投票率が上がったところで、こういう衆愚政治に帰着するようならば、投票率など上がってくれなくて結構とすら思ってしまう。自分が政治に関心が薄く、よくわからないというのであれば、(選挙結果とそれによる政治の動向に文句を言わない前提で)政治に口を出さない、すなわち投票しないという方がよほど筋が通っていて誠実だとすら思ってしまうほどである。

 ここまでバカの特徴をまとめたが、これを前提として最終的に「バカとの闘い方」を考えなければならない。だが、真面目に考えれば考えるほど、かえって深みに嵌ってまうのがこの種の問題の悩ましいところである。そう考えると、今までこの種の「バカ」を上手く鎮撫していた安倍政権を評価するほかないだろう。私自身は安倍政権そのものを決して肯定しないが、それでもポピュリズムの抑制という意味においては役に立っていたと言えるだろう。

後記

 今回の記事においては、普段の拙ブログでは当たり前に書いていた「解決策・提言」を出すことができなかった。これは偏に筆者自身のリサーチ不足であり、筆者の考察の限界でもあるのだが、その点はどうかご容赦いただきたい。

 とはいえ、今後のポピュリズム時代においては、ポピュリズムとの闘い、すなわち「バカとの闘い」は避けて通れないものであるのは事実である。幸いにして、このポピュリズムという「バカの跋扈」は全国的なものではなく、地域によって濃淡があるので、まずはポピュリズムが浸透していない地域において良識ある民主主義を守るところから始めなければならないだろう。ポピュリズムが既に相当浸透してしまった地域においては、筆者の口からは「もう知らない」としか言いようがない。それもその地域の民度の表れであり、個人でどうにかできる代物ではないからである。こんな希望もないつまらない結論になってしまったが、次こそはもっと希望のあるまとめ方にしたいものである。

*1:これも同名の書籍(西野亮廣・堀江貴文著)に由来する。

日本、そして文明世界の勝ち筋

本記事の概要

 我が国日本には、海を重視し権威主義を潰すという、単純明快にして効果覿面な「勝ち筋」がある。この勝ち筋を正しく守ることこそが繁栄と成功をもたらし、それからの逸脱は停滞と衰退を招くということは、地理的にも歴史的にもはっきり証明された事実である。そして、この勝ち筋すなわち国家戦略において、大阪こそが重要な役割を担うことを強調しておきたい。その大阪が担うべき役割とは、東京一極集中を否定し、腐敗と戦うことである。大阪がこの役割を正しく果たすことで、日本の繁栄、ひいては文明世界の勝利が約束されるだろう。それほどまでに大阪は重要な使命を背負っている。

単純明快にして根拠のある勝ち筋

 実は今の日本には、あまりにも分かりやすく、それでいて効果抜群な「勝ち筋」がある。それは一言でいえば「海を重視し、権威主義を潰す」ことである。たったそれだけと思うかもしれないが、これほどまでに端的かつ確実な勝ちパターンの存在は、これからのVUCA*1の時代を生きる我々にとっての福音であることは間違いない。この勝ち筋さえ愚直に守っていれば、間違いなく我が日本は繁栄すると私は確信している。

 実際に、この勝ち筋をきちんと守ることにより、空前絶後の成功を収めているイベントとして、大阪万博と瀬戸内国際芸術祭がある。この二つはいずれも「海に浮かぶ島」を舞台に開かれた国際社会と繋がることで爆発的な成功を収めているのは最早言うまでもない。しかし、これらの共通点として「東京の権威主義勢力と距離を置いている」ことはもっと知られるべきであろう。実際に、大阪万博は電通という「東京の権威主義勢力」の親玉を排除したおかげでSNS時代において爆発的な「バズり」を見せているわけだし、瀬戸内国際芸術祭も東京の「芸術ムラ」とは一線を画した、地元に根差す芸術祭として地域社会との共存共栄を実現している。そして、それゆえにこれら2つのイベントは、近年の国内のイベントとしては類を見ない志の高さを遺憾なく発揮しているわけである。

 逆に言うと、1980年代から2020年代に至るまでの日本は、ある意味では当然であるこの勝ち筋から大きく逸脱し、それ故に長きに亘って現状維持と先送りという名の衰退を続けてしまったわけである。もちろん全ての分野において日本がこうだったわけではないのだが、それでも日本人の日常生活を支配する政治と労働と情報という分野においてはこれが蔓延していたのは紛れもなく事実である。その実態に関して具体的な例を挙げるのはここでは控えるが、いずれにしろ言えることとして、あの当時の日本は海とその先にあるつながりを軽視していたわけで、それゆえに俗悪で愚かな勢力が日本社会の支配者の座に居座ってしまったということは忘れないようにしたい。

 この「海を重視する」という戦略が我が国にとって効果的であるのは、地理的に考えてみれば至極当然のことであろう。日本は言うまでもなく四方を海に囲まれた、山がちな島々からなる島国であり、その島々の狭い可住地に(最近は減少傾向にあるとはいえ)多くの人々がひしめき合って暮らしている。そして、豊富な降水と程良く温暖な気候に恵まれた国である一方、広大な土地や化石燃料には恵まれていない国である。このような自然環境の国において、陸に閉じこもり自給自足を目指すという戦略をとるのが適切でないのは火を見るより明らかだろう。アジア大陸と程良く距離がある島国という立地条件を生かして、世界各国との貿易や人的交流により外貨を稼ぐことこそが、我が国にとっての勝ち筋であることは間違いない。戦後しばらくしてから現在に至るまで、日本は加工貿易により外貨を稼ぎ経済を発展させてきた。今でこそ「世界の工場」ではなくなったものの、日本は今でも「日本にしか作れないモノ」をたくさん持っており、その技術的資産により世界の中でも決して侮れない立ち位置にあることは変わっていない。そして、このようなことが成り立つのも、我が国が四方を海に囲まれた貿易立国であるからというのも忘れてはいけない。

 もっと言えば、この海を重視するという我が国にとっての勝ち筋は、歴史的に見ても極めて根拠のあるものであることは強調しておきたい。江戸時代に200年近く鎖国を続けていて、それ故にイノベーションに取り残されていた明治の日本が、たった40年近くで世界に覇を唱える列強の一角に成長できたのは、ひとえに明治新政府が海を越えて繋がる自由貿易を重視し、当時の世界の覇権国家であり世界最強の海軍国家であった英国を味方に付けたからに他ならない。そしてその後、日本は暴走する大衆を抑制できぬまま、海洋国家にあるまじき大陸の奥深くへの進出(侵略)を行い、国内を軍国主義という権威主義で覆い、英国(と米国)を敵に回して破滅へと向かったことは今更説明するまでもない。これだけでも、我が国にとって「海を重視する」という勝ち筋を守ることが如何に重要で、そしてそれから逸脱することが如何に罪深いかがよくわかるだろう。

海と繋がる大都市・大阪の使命

 ここまで、海洋国家を目指すことこそが我が国日本の最も確実な勝ち筋であることを述べたが、この戦略において最も重要な役割を担う大都市が大阪であることを主張したい。勿論日本には海に面した大都市が他にもあるのだが、私がこの記事で述べている海洋国家戦略を成功に導くためには大阪がその旗振り役を担わなければならないと考えている。もっと言えば、その旗振り役を担えるのは現時点では大阪以外にはあり得ないと確信している。

 日本で海に面している大都市といえば東京だってそうだと思うかもしれないが、東京という都市の性質を考えると、今の私が大阪に期待している役割を東京に担わせることはできないと断言する。何故なら、東京は一応海に面してはいるとはいえ、実質的には「関東平野を抑える軍事都市」としての色合いが非常に強く、大陸国家的な都市と言えるからである。もっと言えば東京こそが、1980年代からの日本を覆った、反海洋国家的な(すなわち大陸国家的な)虚妄の総本山であるからだ。東京には、江戸と呼ばれていた時代から「寄らば大樹*2の陰」という性質があるようで、とにかく食い詰めた流民を吸収して際限なく膨張するという「発展」を遂げてきた。そしてそれは今も変わっていない。俗に言う「東京一極集中」の正体はまさにこの通りで、東京に集中する権力や既得権を頼りに、本来なら淘汰されて然るべき勢力が蝟集して延命を図っているという、そういうしょうもない現象に過ぎないのである。勿論、そんな「軍事都市」が私の提唱する海洋国家戦略とは相反するというのは自明だろう。

 翻って大阪はというと、古くから自由の気風が根付き、瀬戸内海の東端という恵まれた立地を活かして交易で栄えた都市であり、まさに私が提唱する海洋国家戦略の適地として非の打ち所がない。実際、今の大阪は世界中の観光客に愛され、世界中の投資家によって注目されている。このような大阪の成功を支えているのは、歴史に裏付けられた大阪の気風と、今の大阪の人々の賢明な政治的選択に他ならない。大阪の気風は、古くからイノベーティブな人々を惹きつけ、そこから新たな学問や技術を生み出していったわけで、それは今も変わっていない。ただ、それだけでは今の大阪の成功が存在しなかったのも事実である。大阪の昨今の繁栄を支えているのは、紛れもなく大阪の人々が主体的に改革を求める政治勢力を選択したからで、この賢明な選択がなければ大阪は衰退を避け得なかっただろう。かつての大阪は典型的な「悪い意味で田舎臭い地方都市」であったが、これは大阪市役所やその外郭団体が天下りと利権にまみれた「腐敗の巣」であったからに他ならない。そのような腐敗勢力は、東京を総本山とする権威主義勢力との親和性が高く、彼らが殊更に強調し続けてきた「中央との太いパイプ」は腐敗と頽廃以外の何物も大阪の民にもたらさなかった。そのような腐敗勢力と真っ向から戦い、撃破することに成功した政治勢力は、今もなお大阪で絶大な支持を得ている。このような成熟した民主主義が根付いている都市だからこそ、大阪は海洋国家日本の経済の中心たり得るわけである。

 そして、大阪は腐敗勢力を駆逐したという実績があるからこそ、日本の勝ち筋としての海洋国家戦略における最重要拠点たり得るし、そうなる必要がある。実際に、都道府県単位で見ても、奈良県や兵庫県、そして遠く離れた秋田県でも既に大阪の改革に呼応する政治勢力が誕生している。そして、それらの志ある地域が、これからの日本の課題のフロントランナーとして海洋国家戦略における重要な役割を担うのは言うまでもないだろう。そのときに、大阪は「自由の砦」として腐敗と戦う改革勢力の精神的支柱の役割を担うはずである。逆に言えば、今は想像できないかもしれないが、大阪がかつて倒した腐敗勢力や、今現在台頭しつつある衆愚勢力の手に落ちてしまえば、海洋国家戦略という「勝ち筋」はあっという間に崩壊し、日本は破滅の坂道を転げ落ちることになるだろう。だからこそ、大阪は反腐敗の旗幟の下開かれた自由な社会を死守しなければならない。

 さらに言えば、大阪が海洋国家日本の真の中心としての役割を担い、腐敗や暴政と戦い自由を守ることは、そのまま開かれた自由な国際社会、すなわち文明社会そのものを守ることにも繋がる。先述の通り、今の文明社会において日本は覇権国家でこそないものの、その産業の複雑性ゆえに、文明社会の維持に必要不可欠な国である。そして、そのある意味では特殊な立ち位置ゆえに、日本が開かれた自由な社会でなくなることは、そのまま文明社会の敗北に直結する。その意味で、大阪は文明秩序に支えられた国際社会の命運を握っているとも言える。勿論今の世界が全て開かれた自由な民主主義国家だけで成り立っているわけではないのだが、それでも一部のならずもの国家やテロ勢力を除けば、いろいろな形で今の国際社会を成り立たせるのに貢献しているのは事実である。その現実のもとで、大阪にできることは何かというと、万博という「世界の文化祭」の資産を活用し、世界に冠たる国際都市として自由な文明社会の旗手となることである。そして、世界の連帯を妨げ、不和と騒乱を巻き起こそうとする、ならずもの国家やそれに類する腐敗勢力に毅然と立ち向かい滅ぼすことである。今の大阪はそれほど重要な使命を背負っているわけである。

*1:Volatility(変動性)・Uncertainty(不確実性)・Complexity(複雑性)・Ambiguity(曖昧性)

*2:大樹とは「征夷大将軍」の唐名である。

生成AIの衝撃(3) ホモ・ルーデンスの時代へ

今回の記事の概要

 生成AIの登場により、人間の活動における「遊び」の価値が高まることは言うまでもない。およそ人間社会の文化はすべて「遊び」から生まれたものであり、生成AIという新しい技術もまた「遊び」の道具として、新しい文化の創生に役立っている。そして、「遊び」は万博というリアルの場の体験においてもその意義を伝えている。一方で、かつての人間社会、とりわけ戦後の日本社会は「遊び」を過度に軽視してきたわけだが、その背景には「遊ぶ楽しさを忘れた」奴隷根性の持ち主の存在がある。しかし、このような暗い歴史的経緯に抗うかのように、万博を通じて「遊び」の価値を再発見している人々が、大阪を中心に増えているのも事実である。我々人類の役割が「遊び」となるかもしれない未来において、遊びこそが社会をより生き生きとしたものにすると言えるだろう。

「遊び」の復権

 生成AIという21世紀を画期づけるイノベーションは、それ以前とそれ以後で人間の活動、とりわけその頭脳による活動を大きく変えるということは、前々回の記事で述べた通りである。そして、生成AIによりバーチャル世界の再現度が上がることにより、リアル世界の重要性、とりわけ「工学」の重要性が上がることも、前回の記事で述べた。これらの結論から導き出される人類の未来の一つとして、人間の活動における「遊び」の価値が再び高まることが期待されると私は考えたい。今回の記事ではこれについて述べることにする。

 そもそも、古今東西人類が創り上げてきた文化というものは、そのすべてが「遊び」から生まれたものである。卑近な例を挙げると、ボウリングというスポーツは、もともとヨーロッパのキリスト教に基づく宗教的儀式として生まれたものであるが、その儀式というのは「悪魔に見立てたピンにボールを投げて、たくさん倒した方が良いことがある」というものである。言うまでもなく、木でできた小さな柱状の物体を幾つか並べて、それに木の球を転がして倒すというのは立派な「遊び」である。そして、当時のヨーロッパのキリスト教の聖職者たちは、この「遊び」に宗教的な意味を付与することに成功したが、この「宗教的な意味の付与」というのも立派な「ごっこ遊び」と言っていいだろう。以上は本当に一つの例に過ぎないが、この世に存在するありとあらゆる文化は全て「遊び」あら生まれたものである。この「人類の文化はすべて遊びから生まれた」という主張は、決して私自身の独創によるものではなく、20世紀前半にオランダで活躍した人文学者のヨハン・ホイジンガが「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人、カッコ内は筆者による)」という著作で既にまとめているものである。その詳しい内容の概略については、既に多くのWebサイトにまとめられているのでそちらに譲ることにするが、とにかく重要なのは「人間とは自由に遊ぶ動物であり、遊びこそが人間の文化や文明を創り上げてきた」という結論である。

 そして今、生成AIという新しい技術は、早速「AIで遊ぶ」という言葉の通りに、新し物好きな人たちによって多種多様な「遊び」の道具として用いられている。すなわち、生成AIという、自分よりも遥かに博覧強記で当意即妙な受け答えができる「友達」を相手に、多くの人が創造的な活動を営むという「遊び」を多くの人が実際にやっているわけである。あるいはAIに対して、自分に求められている種々雑多な業務を代わりにやってもらうように頼むという「仕事」を任せる人も当然いるわけだが、これもある意味では、AIを用いて仕事を楽に済ませるという「遊び」と捉えることもできる。いずれにせよ、人間は生成AIという道具を上手く「遊び」に用いていると言えるだろう。

 更に言えば、生成AIに関する話題だけではなく、より一般的な人間の知的活動についても、「遊び」の要素の重要性が見直されつつある。その最も顕著な例が、今年2025年の4月から10月にかけて、大阪湾に浮かぶ人工島の夢洲で開かれる大阪万博である。言うまでもなく、大阪万博には多くのパビリオンが建ち並び、その中の少なからぬ割合で「体験型の展示」が行われているわけだが、これも言うまでもなく「遊びの楽しさ」を契機として未来社会に興味や関心を持ってもらうために企画されたものである。もっといえば、体験型の展示に限らず、日本で日常生活を営んでいる限りはまず滅多にお目にかかれないような外国の食文化に触れたり、大屋根リングの上を海風を感じながら歩いたりするのも、立派な「遊び」と言えるだろう。更に付け加えると、万博のパビリオンは半年間で解体することを前提として、常設的な建物では実現できないような前衛的な構造に挑戦して建築されたものであるが、これもある種の「遊び」と言ってよい。このような個々の営みに共通する要素として、ホイジンガは「自由な発想のもと何らかの秩序をもって構成されるバーチャルな世界で成り立つ営み」であるとまとめ、それを「遊び」と定義づけたわけである。そういう意味で、万博、とりわけ今の大阪万博というのは本当の意味で世界規模の「遊びから生まれる新しい文化の展覧会」であるといっても過言ではない。

遊びを否定する奴隷根性

 ここまで、未来の人類社会における「遊び」の価値の重要性について述べたが、これはとりもなおさず「かつての人類社会は遊びの重要性を軽視することがしばしばであった」という事実と裏表の関係にある。その最たる例が、ナチズムや軍国主義から共産主義に至るまでの、あらゆる形の全体主義・権威主義社会そのものである。言うまでもなく、このような全体主義・権威主義社会に暮らす人々は、あらゆる自由な人間的活動(=「遊び」)を封じられ、無限の権力を持ちながら一切の責任を取らないという(最悪の)権力者にとってのみ都合のいい社会の維持に協力させられてきた。そしてこのような「遊び」の軽視は、表向きは個人の自由が担保されているはずの自由資本主義社会においても(全体主義社会ほど露骨かつ強烈でないだけで)存在していたのも事実である。

 特に、「世界で最も成功した社会主義国」と呼ばれた戦後の日本社会における「遊び」の軽視は、そのやり方の巧妙さおよび実態としての陰湿さにおいて、ある意味では本家本元の社会主義国のそれ以上に深刻な社会的病理であったと言えるだろう。敗戦と占領統治により、戦時中の国家総動員体制の根幹となっていた組織である旧日本軍および大政翼賛会は解体されたが、その背後にある1940年体制*1そのものは解体されずに温存された。そして、高度経済成長期から安定成長期において、この1940年体制はその主体を「日本の会社 (JTC)」に置き換えてそのまま日本社会を長らく支配することになった。1940年体制という社会構造は、当時の最先端の社会であった大量生産工業社会(フォーディズム)と相性が良かったのは事実である。だが、それでもこの1940年体制という構造は、規格化された製品の大量生産と大量消費によって成り立つ社会を前提としている以上、そこで実際に働く個々の人間についても「規格化」を求め、そこからの逸脱(=遊び)を大なり小なり抑圧してきたのは紛れもない事実である。そして、そのような抑圧が最も顕著かつ、現在まで長く続いてしまっているのが日本というのが現実である。他の国々ではインターネットという新たな文明の利器に上手く適応し、そのような抑圧を前提とする社会から脱却できているにも関わらず、日本ではそれに失敗し、つい最近に至るまで「遊び」の軽視という社会的病理は悪化する一方であった。これは「日本の会社」をはじめとする、あらゆる社会的構造がフォーディズムおよびそれによって成り立つムラ社会からの脱却に猛烈に抵抗し続けてきたからである。では、なぜ日本社会はこれほどまでに「1940年体制=フォーディズム的ムラ社会」に拘泥し続けてきたのだろうか。

 実は日本においては、このような「遊びの否定」という抑圧を何とも思わない階層が社会の大きな部分を占めていた。すなわち、日本的サラリーマンという巨大な社会階層が、この抑圧構造を支持していたわけである。もっと言えば、このような抑圧的構造を諸手を挙げて支持するような、端的に言えば奴隷根性の持ち主としか言えない階層は、それこそ江戸時代から日本の少なからぬ割合を占めていた。江戸時代から戦前までの小作農というのは、そういう意味で未来に何の展望も持たず、さりとて現状に対する不満だけは一丁前に持っていた層であると言える。そして、そういう人たちは往々にして冷笑的な態度に終始し、本当の自由からは常に逃走するだけであった。それどころか、本当の意味で自由を手にし、社会を進歩させようとする人たちの足を引っ張り、見えない敵を攻撃してルサンチマンを満たそうという陰湿でくだらない闘争に明け暮れていたわけである。その最たる例が「暴支膺懲」に端を発するあの悲惨な戦争であり、「出る杭を打つ」教育であったりする。そういう意味では、我が国は大衆の奴隷根性に泣かされてきた国であると言えるだろう。

遊びこそが文明の源である

 ここまで、日本は奴隷根性に汚染された大衆に支配された国であると述べたが、幸いなことに今の日本はだんだんこの傾向から脱しつつある。それは昨今の大阪万博の盛り上がりを見れば火を見るよりも明らかだろう。先程、万博とは「遊びの場」であると述べたが、SNS全盛の今の時代において、個々人が主体的に万博会場で「遊ぶ」ことにより、これまで日本社会を覆っていた奴隷道徳に基づく権威主義の化けの皮が剥がれ、個々人が自由に遊ぶ楽しみを取り戻しつつあるのは紛れもない事実である。実際に、万博について未だに否定的な言説を垂れ流している人たちが、見た目こそ違えど本質的には奴隷道徳に汚染された「遊びの楽しみを忘れてしまった」哀れな人々であることは、彼ら彼女らの主張を読んでいけばわかるだろう(勿論こんなことに時間を費やすのが楽しくないのは自明だが)。万博という「世界規模の文化祭」をきっかけに、日本人は着実に「遊びの楽しみ」を思い出しつつあるのは間違いない。

 そしてこれと時を同じくして、これまでその自由主義的精神と進取の気風ゆえに*2、奴隷根性に汚染された大衆や彼らの声を代弁してきた東京マスメディアから不当に貶められ、虐げられてきた大阪の復権も進んでいる。大阪は日本第二の大都市圏としての実力を取り戻すどころか、世界に冠たる国際都市として更なる高みへと踏み出そうとしている。そして、この流れについて、偏見なき海外の人々は言うまでもなく、日本国内でも大阪や西日本の普通の生活者たちは喜んで受け入れているのが現実である。このような流れが進んでいるのも、大阪が「自由な遊び」を尊重する都市であるからである。そして、大阪に活気が溢れていた時代はいつも我が国も活気に溢れていた。我が国の未来も、大阪が元気である限り明るいだろう。

 だからこそ、我々は「遊ぶ」ことの楽しみを(童心に帰って)思い出し、遊びから新しいアイデアを生み出し、いろいろな形で社会に還元していくという使命を尽くさなければならないだろう。生成AIは人間の頭脳労働の多くを代替するのは間違いなく確実であり、そのようにして人間が担ってきた頭脳労働がもはや人間の手を離れるようになった未来の社会において、人間に求められる役割(すなわち人間の仕事)は「額に汗を流して働く」か「遊ぶ」ことのいずれかとなる。勿論肉体労働にもそれ相応の適性(強靭な肉体や我慢強さ、集中力など)が求められる以上、肉体労働の担い手は今よりもっとリスペクトされるはずであるし、そうでない社会は滅びる他ない。その一方で、遊びを生業とする人々がいてこそ、社会はより生き生きとしたものになるはずである。人間社会が「死なない」ために労働が必要であるのは言うまでもないが、人間社会が「生きていく」ためには「遊び」が必要である。そして、「生きている」人間社会のみが我々人類に希望をもたらし、社会そのものの進歩を実現するからこそ、人間社会には遊びが必要である。これをもって今回の記事の結論としよう。

*1:野口悠紀雄による。なお、堺屋太一も「昭和16年体制」という用語で同様の概念を説明している。

*2:この話の詳細は、以前の記事を参照していただきたい。

生成AIの衝撃(2) 「工学力」の時代へ

本記事の概要

 生成AIというバーチャル世界のイノベーションをを支えているのは、リアル世界の「工学」の力である。そしてこの「工学力」は、製造業に限らずあらゆる産業に通用する「文明度の高さ」であり、生成AI時代においてはバーチャルとリアルの両面で発展していくものである。このような工学力というのは工業生産力とは別物の概念であり、それ故に必ずしも工業生産力が高いわけではない日本が世界一の工学力を擁していると言えるわけである。この日本の工学力の高さは、それこそあらゆる産業について遺憾なく発揮されており、今後の日本はそれを世界に売り込むべきである。もっと言えば、文化においても日本の工学的精神は活かされていると言える。だからこそ、我々は産業と文化の質を高めるために日々の生産性を高めるべきである。

バーチャル世界を支える工学力の重要性

 生成AIは、今やIT技術によって支えられたあらゆる領域において重要な役割を果たしている。その具体例は前回の記事に譲るが、いずれにせよ生成AIはこれまで人間の頭脳によって支えられてきたあらゆる活動について、生身の人間のそれを上回る生産性を実現している。しかし、生成AIの圧倒的な生産性の源泉となっているのは、圧倒的な計算機資源という「実体的な」工学の力である。今回はこの「工学」に着目して、生成AIが変える新しい世界について論じたい。

 生成AIという「バーチャル世界の産物」を支えているのはコンピュータという「物理的実体」である。言うまでもなく、生成AIは機械学習モデルによって構築された圧倒的に高性能なコンピュータの集合体によるサービスとして我々に提供されている。つまり、生成AIという「デジタルデータを生成しバーチャル空間に生み出す装置」を支えているのは、極めて高性能なコンピュータという「物理的な実体」そのものであり、それは間違いなく現代文明を支える工学の精華そのものである。すなわち、生成AIという文明の利器が活躍するのはバーチャル空間においてであるが、それが機能するためにはリアルの工学の力が必要不可欠だということである。

 この「工学の力」は非常に多岐にわたる概念であり、それはあらゆる産業の技術力と、それらを安定して提供する供給力の総体、言い換えれば「文明度の高さ」に他ならない。先程の例で言えば、最新鋭のパソコンを作るためには高性能なCPUやGPUが必要不可欠だが、それを作るためには品質の高い半導体プロセスが必要である。そして、その半導体プロセスには、極めて品質の高いシリコンやフッ化水素といった工業材料が欠かせない。以上は飽くまでも一例であり、工学力というのは文明国家、ひいてはグローバルな文明社会の存立に欠かせない製品やコンテンツの品質や安定供給を支える科学技術の水準の高さである。言い換えれば、ある国の工学力というのは、その国が世界の文明度をどれだけ高めるのに貢献しているかという指標と考えることもできる。

 そして、リアルの世界における工学力という観点で言うと、生成AIを筆頭とするバーチャル世界を発展させるための諸々の技術は、すべてリアルの世界における文明度を引き上げるために存在するものである。そもそも、再現度の高いバーチャル世界というのは、物理的実体によって成り立つリアル世界に対する、曇りなき観察眼があって初めて成立するものである。もう少し掘り下げると、バーチャル (virtual) という英単語の和訳は一般的に「仮想的」であるが、この和訳は必ずしも適切なものではなく、「本質的」というのがより実態に即した訳に近い*1。言い換えれば、バーチャル世界というのは、リアル世界を構成する様々な要素から本質を抜き出し、人間の手によって再現した世界にほかならない。そして、生成AIという現代の革命的なイノベーションは、バーチャル世界の再現度をより高める一方で、それによるデータをリアル世界に導入することにより、リアル世界に生きる我々の生活の文明度を引き上げていく。バーチャルとリアルは、互いに連関して発展していくものである。

工学力こそが文明の根源である

 さて、先程「工学力」についてまとめたが、ここで重要なのは、工業生産の規模がそのまま工学力に直結しているわけではないということである。現代における「世界の工場」は間違いなく中華人民共和国(中国)であるが、それを以て中国が高い工学力をもつとは言えないだろう。確かに近年の中国の科学技術の発展は目を瞠るものがあるが、それでも中国の科学技術が世界一であるとは言えないだろう。言うまでもなく、本当に工学力が高い国というのは、アメリカやドイツ、スイス、韓国といったOECD(経済協力開発機構)の先進工業国であって、もちろん日本もここに含まれる。それどころか、考えようによっては、日本は世界一の工学力を誇る国であると「自慢」することもできる。

 日本が世界一の工学力を持つ国であるというのは、すなわち「日本は経済複雑性指標において十数年以上世界一の座を死守している」ということである。経済複雑性指標が何であるかというのは、経済に詳しいと自負している人でも存外知らないことが多いのだが、具体的には「その国でしか作れないものがどれだけ多様にあるか」という度合いを数値化したものである。この指標は、その国を含む限られた国でしか作れない製品の種類が多いほど高くなるのだが、それにおいて日本が世界一であるというのは、日本の工学力の高さとその個性が飛び抜けているということに他ならない。

 以上の話題は主に製造業(ものづくり)という観点での議論がメインであるが、この日本の底力である「工学力の高さ」が生かされているのは製造業だけではない。日本国内の日常生活に関わるあらゆる産業において、この工学力は遺憾無く発揮されている。近年の日本において外貨を稼いでいる産業の筆頭がインバウンド観光であるが、これを支えているものの一つが日本の飲食サービス産業の質の高さである。そこそこリーズナブルな価格で、衛生的に安全かつそれなりに美味しい食べ物を、日本中どこにいても食べられるという「日本人にとっての当たり前」は、海外においては決して当たり前ではない。そして、それを支えているのもまた、食品工学や衛生工学、流通システム工学といった「工学力」に他ならない。このように、日本の高い工学力は、日常生活の隅々に至るまで、日本に暮らす我々の生活の文明度の高さに貢献しているわけである。

 更に付け加えると、この「工学力」という概念は、所謂GDPのような量的な数字で表される工業生産力とは完全に独立したものである。日本の「工業生産力」は昭和の高度成長期と比べると最早見る影もないのだが、これは偏に日本という国が「生産拠点として魅力的でなくなったから」でしかない。より具体的に言えば、日本は市場として相対的に小さくなり、かつ製造コストも高いという話である。逆に言えば、今後の日本は、それこそこれから始まる大阪万博で展示されているような「工学の精華」を知識産業的に売り出すことが世界中に求められているとも言える。そしてこれは製造業に限らず、あらゆる産業について言えることである。つまり、日本独特の工学力の結晶と言える製品やサービス、システムを全世界にノウハウとして売り込むことが、今後の我が国の経済の基幹になるということである。言うまでもなくこれらは工業生産という数字では表せない質的な価値である以上、生産力に紐付いている数字であるGDPが云々という話は、日本においてはもはや考える余地もないと言えるだろう。

目指すは「工学立国ニッポン」

 ここまで、生成AIによりバーチャル世界を通じたリアル世界の解像度が高まり、それにより日本の強みである「工学力」の価値が高まっていると述べたが、今後の日本はまさにこの「工学力」で世界を制覇するという戦略を取れば世界に物言う先進国として存在感を維持できるのは間違いないだろう。もう一度繰り返すが、日本の「工学力」は世界一と言っても過言ではない。現に、日本を訪れる外国人観光客の多くが、日本のサービス産業の質の高さに感動しリピーターになっている一方、日本のグローバルニッチトップ企業の製品が世界中の製造業の現場に欠かせない存在になっている。日本には目ぼしい天然資源も無ければ、豊富な農業生産があるわけでもない。それでも日本が長らく培ってきた工学力があるからこそ、日本は世界の一等国として発展するに至ったわけである。だからこそ、工学力を高めることが我が国日本の最高の勝ち筋であると断言できる。

 そしてこの「日本の強みとは工学力の高さである」という話は、ものづくりやサービスに限らず、文化芸術においても当然言える。世界を席捲している任天堂やカプコンといった日本のゲームメーカーが作るゲームはその最たる例だが、絵文字文化や漫画といった「絵と文章を共に使って感情を表現する」という文化もまた、現実世界への鋭い観察眼と種々の創意工夫が生んだ工学力の賜物である。創意工夫や試行錯誤というのも、工学力という文脈で語れるものであるのは言うまでもない。近年の地上波民放テレビの「面白くなさ」は、この「工学的な」創意工夫を怠り、皮相的な身内受けだけを意識し続けてきた結果であるのは最早議論するまでもないだろう*2。現に、日本に負けず劣らずの工学力を誇る韓国が、芸能コンテンツにおいて世界を席捲しているという事実は、マーケティング戦略の上手さだけで説明できるものではなく、彼の国の歌手や俳優たちの弛まぬ鍛錬と一途なエンターテイナー精神(これも「工学的精神」と言っていいだろう)の表れと言っていいだろう。日本のエンターテイナーたち(どんな分野でも構わない。アイドル、VTuber、実況者、漫画家、お笑い芸人、作曲家、その他「魅せる」ことを生業とするものなら全てそうだ)も、自らが「魅せたい」ものに対する観察眼をもっと極め、自らの「芸」に対する真摯な姿勢を全力で観客に魅せてほしい。文化芸術においても「工学的精神」が生きていることこそが、日本の強みであるからだ。

 だからこそ、我々日本人は、日本が工学立国を目指し、工学力で世界に冠たる存在となるようにするために、日々精力的に自らの生産性を高めなければならない。言うまでもなく、工学力の高さと生産性の高さは表裏一体である。そして生産性を高めるということは、具体的には一人ひとりが自らの才能を最大限活かせるようすることであり、また生産性の低い組織から離れることである。もっと言えば、我が国の生産性向上を妨げているあらゆる勢力に対し、断固として戦うことに他ならない。「低生産性集団」やそれらから発せられるプロパガンダを放置することが、我が国の工学力の低下を招くことは最早言うまでもないだろう。生産性を高めるということは、そのまま自分自身、ひいては我が国の生産性を高めることと同じであり、それ故にその敵となる勢力は駆逐されなければならないのである。我々一人ひとりが自らの生産性を高め、結果として社会全体の生産性を高めた先に待っているのは間違いなく「栄光」である。

*1:virtualという英単語の由来はラテン語のvirtus(能力、美徳)であり、そこからvirtue(美徳)という英単語も派生している。

*2:言うまでもなく、2010年くらいまでのテレビ番組には、今のYouTubeのコンテンツでも太刀打ちできないほどの面白さがあった。少なくとも、その時代のテレビ制作の現場には「工学的な精神」が息づいていたのは間違いない。