前置き
まずはこの動画を見ていただきたい。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校・高等学校)という、日本で最も受験偏差値が高い国立中高一貫校(併設型)には、あまりにも「個性的」な同級生たちがいたという、ただそれだけの内容である。当然、筑駒について何も知らない人が見れば、「筑駒ってヤバいな」くらいの感想を持つのが普通で、せいぜい「動画主は筑駒でも相当ヤバいクラスにいたんだな」くらいが関の山だろうか。この動画を見ただけで、彼をチャンネル登録するかどうかは、客観的に見ればだいぶ微妙なところだろうか。
しかし、私はこの動画を見て、迷わず彼のYouTubeチャンネルのチャンネル登録ボタンを押した。とはいえ、そもそも私自身、YouTuberのチャンネルなどそこまで積極的に登録しない方である。そんな私がなぜ彼のチャンネルを登録したか。それはこの動画自体が、自分の過去の記憶そのものを嫌というほど思い起こさせたからである。
ここまで書いてきて、勘の良い人はもう気づいたかもしれないだろう。私はその動画主の高校時代の同級生、つまり筑駒のOBだったからである。そもそも、この動画を紹介されたのはその筑駒の同級生のグループLINEからである。そこで「誰だろう?」と思って、彼のチャンネルから彼のnoteにたどり着き、そこで彼がまさに自分の同級生の一人そのものであることを確信したのである。そもそも、最初の動画に出てきた3人のうち、少なくとも2人は当時の自分と何らかの形で濃密な接点があったのを思い出したということが、彼について深く調べるきっかけだった。そこから調べていくうちに、自分も彼自身と高校生当時*1にとある形で関係を持っていたことに至ったというのが結論である。
本論
というわけで、早速本題に入らせていただきたい。彼は動画やnoteでさんざん「自分は筑駒の落ちこぼれで、最後はニートになった」と語っている。確かに、彼自身が証言している筑駒時代の彼の実態を振り返って客観的に評価すれば、彼が筑駒という「東京の頭脳の特異点」ともいうべき領域で落ちこぼれ、社会からもドロップアウトしていったのも残念ながら当然と言わざるを得ないだろう。しかし、自分にはこの事実がどうも受け入れがたいのである。
彼はYouTubeやnoteでも述べているように、23区で最も平均所得が低い足立区で、その中でも特に学力水準の低い層が多く集まる校区の、両親ともに高卒の家庭で生まれ育った。つまり、彼は一般的な筑駒中学合格者の平均像とは大きくかけ離れたバックグラウンドを持つという意味でも、本来なら筑駒どころか中学受験そのものすら有り得ないような家庭環境に突然変異のごとく生まれてしまったという意味でも「外れ値」だったのである。そして、この「彼は家庭環境の意味でも筑駒生の平均という意味でも外れ値だった」という事実こそが、「彼が筑駒で落ちこぼれたのも当然」という、世間一般の人間が持ちうる認識を私に拒ませる最大の理由だと思っている。
どういうことなのかというと、かなり乱暴な言い方になるが、彼はそもそも「筑駒に入っていい『身分』などではなかった」ということである。ここで「身分」という、私としては使うのも物憂い前近代的な概念をわざわざ持ち出すに至ったのだが、これは「一般的な日本社会においては、99%の人間は本人の才能や素質に関係なく、同性の親の生き方をなぞることしか許されない」という、あまりにも残酷な現実が前提として存在するからである。平たく言えば、開業医の息子は開業医に、そして彼のような高卒労働者の息子は高卒労働者になるのが、少なくとも今の流動性の低い日本社会においては最も現実的なルートであるということである。
ここまでの私の主張をただ述べただけだと、読者から「それはあなたが安全圏から一方的に見下しているだけだろう」と反論される可能性も十分にあることは想定済みである。だからこそ、自分がその主張に至った理由も述べたい。かくいう私自身も、中学入学組か高校入学組かという違いはあれど、十分「外れ値」だと思っているからであり、そして今現在自分もまたニートとまでは言わずとも、普通のキャリアプランからは完全にドロップアウトしてしまっているからである。そしてこの事実をもってして、この「身分」論の裏付けとしたい。
実を言えば私自身もまた、彼ほど極端ではないにせよ「平均的な筑駒生の家庭の描像」とはかけ離れた家庭で育っている。足立区で両親共に高卒家庭という極端な例ではないにせよ、父親は地方の公立トップ校から地方旧帝理系院卒でIT系の中小企業を転々としており、育ての母親もまた東京都心部育ちとはいえ地方の公立2番手校から当時のそこそこ有名な女子大を経て出版業界を転々とした末にフリーライターとして独立したという、世間一般の評価で見ればかなりの年収を稼いでいるとはいえ、決して実家が太いとまでは言いがたい家庭である(それでも渋谷区の北辺にマッチ箱3階建て住宅を建てられるほどの経済力はあったが)。おまけに、義理の姉*2に至っては、育ての母親の頭脳をまともに受け継いだとは言い難い、都内の中堅私立高校から私立のFラン薬学部(それでも薬学部である以上、名前さえ書けば受かるというほどではない)という経歴である。こんな家庭の中で、自分だけがたまたま「筑駒に高校入試で受かってしまえる」だけの頭脳を持ち合わせてしまったということが、私に「彼は落ちこぼれるべくして落ちこぼれたわけではない」と思わせる最大の理由である。
では、私がそう思うに至った理由は何か。それは、私の中にある「人間は分不相応なものを手に入れたり、分不相応な願いを叶えたりするとかえって破滅する」という薄っすらとした経験則によるものである。そして、その経験則の範囲においては、私とあの動画の彼は完全に同類だと言えるだろう。そもそも私自身、中学2年生の終わり頃までは、筑駒という学校の存在自体を知らず、転校して入った都内の公立中学校を卒業したら、そのまま都立のトップ校である日比谷あたりに入れば十分とばかり思っていたのである。そんな私が、当時やっていた無料の大手塾の模試を受けた結果、塾講師の口車に乗せられて(?)、あれよあれよという間に国立で授業料が安かった筑駒を第一志望に据え、見事受かってしまったのである。ちなみに、私は開成や慶應志木、渋幕も受けて全勝しているのだが、もし筑駒に落ちたら「うちは金が無いから」という理由で日比谷を受け*3、そこに受かったら日比谷に行き、それでもダメなら開成というつもりだった。それくらい、親も自分も、心の中では「筑駒など本来は分不相応な場所である」と認識していたのである。
その後の筑駒での自分は、確かに学校内ではやや浮いていた感が否めないが、それでも自分としては筑駒という空間に何とか適応しようと藻掻いていたのは事実である。でも結局、高校入学組ということを考慮しても、最後まで平均的な筑駒生が持ち合わせている「文化資本」とやらにはアクセスできなかった。
それでも結局、現役で東大に合格したはいいものの、その後何やかんやあって2年留年し、卒業後も正社員としての就職自体に失敗し、長年続けてきたアルバイトも辞めて大阪に2年ほど飛び出すという、世間体だけを考えれば完全なる「転落」人生を歩んでいる。それを振り返れば、あの動画の彼がニートにまで「落ちぶれた」のも、決して彼が怠惰で社会適応力が低かったからとは言えないと思うというのが結論である。現に彼のnote記事は、決して筑駒にまぐれで受かったとは思わせないほどの思考力をいかんなく発揮した、精度の高い文体であると思っている。
その後
ここまで「彼が筑駒で落ちこぼれ、その後ニートにまで落ちぶれたのは、彼が筑駒に入るべき『身分』などではなかったからある意味では当然の成り行きである」という、動画の主の彼にとっては失礼極まりないレベルの暴論を展開してしまった。しかし、この論を展開するのは、彼自身に失礼であるという意味も含めて、極めて血反吐を吐くようなつらいものであったと言いたい。
自分が「身分」論を持ち出すのがつらいと思うのは、それが結局はStatus Quo(現状維持)の正当化に過ぎないからだと自分自身で認識しているからである。福岡伸一氏も言っていたが、現状維持とはエントロピー増大の果てにある緩慢な死を認めることと同義であり、それに抗うのが生命活動であるという明確な見解が私にはある。Status Quoの正当化は、その見解と真っ向から矛盾するのは言うまでもないだろう。現状を突き抜けた先に未来があるはずである。それが温かい血の通った人間社会である以上は。そう書いて今回は終わりとしたい。