(良識ある個の)自由(によって成り立つ繁栄と平和を)保守(するために戦う)主義

 まず、今回の記事タイトルについてだが、括弧がやたら多く、しかも長ったらしくて読みにくいと思うかもしれない。だが、どうか許していただきたい。この記事タイトルは、私が「自由主義」および「保守主義」という政治思想に対してどう向き合うか、悩みに悩んだ末に導き出された結論の象徴である。言い換えれば、自由主義保守主義という政治思想を、私がどのようにして解釈し、今の我が国日本に当てはめるべきかという問いに対する答えを端的に表したのが、この一見して読みにくく長ったらしい記事タイトルである。全然端的でも何でもないと思うかもしれないが、それでも私がこれから伝えたいことを表現するには、むしろ短すぎるのではないかと思うほどである。

 

 では本題に入ろう。そもそも自由主義保守主義という「主義」は、一般的には「望ましい社会・政治とはどういうものであるべきか」という前提のもとに、政治的立ち位置を表すのに使われるものであり、そういう意味では政治思想の一つである。そして、それは他の「主義」:例えば社会主義国家主義、あるいは資本主義や無政府主義などについても全く同じである。その一方、所謂「民主主義(democracy)」というのはそういう「主義」ではなく、より現実的かつ即物的な「政治体制のあり方」を指し示すものに過ぎない*1。つまり、英語でいうdemocracy(デモクラシー)に相当する本来の日本語は「民主政治」であり、それは決して何らかの「望ましいものとして規定される理念上の社会・政治体制」を表すものではない。言い換えれば、デモクラシーというのは政治を行ううえでの一つの手段に過ぎず、それによってどのような「主義」に近づくかについては一切含意されないのである。

 つまり「民主主義」というのは厳密に言えば「政治思想」ではなく、単なる「政治のやり方」に過ぎない。そして、我が国を含めた民主国家において、政治に骨の髄まで染まっていない一般人は、○○主義と呼ばれるようないろいろな「理念的、抽象的な」政治思想よりも、「具体的な」未来の生活がより良くなることを期待して、いろいろな政治家に一票を託すのである。一方で、そんな「一票を託される」側である政治家は、そういう「ふわっとした」感覚ではなく、もっとしっかりした何らかの哲学、それこそ「保守主義」とか「進歩主義」といった政治思想に基づいて政策を提言しつつ、そのうえで民衆に一票を託してもらおうと「売り込む」必要がある。でも、政治思想そのものを丸出しにしても、一部の政治オタク以外はとっつきにくいと感じるのが普通の感性なので、いかにしてその政治思想をより「一般の生活者に根ざした」具体的な諸々にできるかというのが、政治家には求められることになる。そういう意味で、所謂民主主義(デモクラシー)も、政治思想とは完全に切り離せない一方、政治思想そのものとはまた違うということを考慮しなければならない。

 

 ここまで、保守主義自由主義といった政治思想ではなく、ずっとデモクラシー(所謂民主主義)について述べてきたが、世界的にデモクラシーが民衆に支持されるのは、それが民衆の幸福度を高めるのに繋がっているからである。とはいえ、デモクラシーで民衆が幸福度を高められるようにするためには、民衆に一定以上の水準の政治的リテラシーがあることが求められる。その意味では、2008年以降の大阪はデモクラシーの成功例であると考えていいだろう。2008年以降、大阪府大阪市の行政はずっと大阪維新の会が「政権与党」として握っているわけだが、そんな大阪維新の会がやってきたのは、兎にも角にも愚直な「草の根運動」であり、生活者(=民衆)主体の政策提言とその愚直な、しかし徹底した実行である。それにより、大阪府民・市民の生活水準は公共サービスの質の向上や治安の改善、さらには万博誘致やインバウンドバブルに伴う空前絶後の好景気といった形で、維新以前とは見違えるほどに良くなっている。しかし、だからといって維新の会がポピュリズム大衆迎合主義)政党であるかというと決してそんなことはない。維新の会は綱領や「維新八策*2」により、自由主義保守主義を基盤とした確固たる政治哲学をもって具体的な政策に落とし込みつつ、民衆の声を真摯に受け止めて大阪を中心に根強い支持を得ているのである。そして、維新の会が大阪で絶大な支持を得るに至ったのは、長らく経済が低迷し課題が山積していた大阪において、大阪が抱える諸課題を、当時の橋下徹代表を中心とする大阪維新の会の各メンバーが地元の民衆に根気強く啓発し、結果として大阪の民衆の政治的リテラシーが高まったからに他ならない。

 ここまでデモクラシーの成功例である大阪維新の会の躍進と大阪の復活を述べてきたわけだが、一方でデモクラシーの失敗というのも当然存在する。その最たる例がヴァイマル共和政におけるナチスNSDAP/国家社会主義ドイツ労働者党)の躍進とヒトラー独裁体制の確立であることは言うまでもない。そして、ナチスの躍進というのは、本質的には無定見な大衆によるデモクラシーの暴走であり、全体主義による「個の自由」の圧殺である。その悍ましき実態の詳細は歴史の教科書などに譲るとして、私が主張したいのは、デモクラシーは政治を実現する一つの手段に過ぎず、使いようによっては国やそこで暮らす民衆にとって毒にも薬にもなるということである。そして、デモクラシーは本質的に「大衆の暴走」というリスクを抱えていることもそうである。近年(といっても大阪維新の会が成立して以来ずっとだが)、政治界隈でよく言われるのが「維新はナチスと同じ」という批判なのだが、これはある意味では正しいかもしれない*3。だが、維新の会はナチスとは絶対に違うし、むしろそれらは相反するものである。それは「個の自由」に対するスタンスからも明白である。ナチスは「個の自由」を一切認めない全体主義政党であるが、維新の会は綱領に「自立する個人」を明記するという形で、明確に「個の自由」を尊重するような政治哲学を貫いている。そして、この「自立する個人=個の自由」こそが、これから述べる、良識ある個の自由によって成り立つ繁栄と平和を保守するために戦う主義、すなわちスカーレット流の「自由保守主義」という政治哲学の核である。

 

 私が本記事で提唱する「自由保守主義」の根幹をなすのは、言うまでもなく「個の自由」である。ではその「個の自由」の定義とは何か。それは公正さ(フェアネス)とそれに基づく良識に従って、己の使命のために全力を尽くす自由である。そして、ここでいう己の使命とは、それこそビジネスパーソンであれば社会の利益のために事業を拡大し富を稼ぐことであるし、アーティストであれば己の信念と情熱に基づいて独自の作品を作り上げることである。勿論、ここで挙げた例以外でも、例えば良き父親、良き母親として子供を守り責任をもって大人になるまで育てることだとか、故郷(地域)の顔役として地域の持続可能な発展のために尽くすことだとか、そういうのも「己の使命」と考えていいだろう。大事なのは、公正さと良識を伴っているという条件において、それぞれの「己の使命」はみな等しく尊重されるべきであるということである。それがあって初めて、「個の自由」という概念は成り立つ。

 そして、この「個の自由」によって人がそれぞれ己の使命に邁進する自由があってこそ、今の自由世界における繁栄が成り立っており、そのような繁栄が世界平和の礎として必要不可欠であることはもはや言うまでもないだろう。一方で、そのような「個の自由」を認めない政治思想、もっと言えば「病的なイデオロギー」が存在するのも事実である。それこそ先程述べたナチスの思想(ナチズム)はその最たる例であろう。そのような病的なイデオロギーの存在を認め、その伸長を許すということは、確実に「個の自由」を圧殺し、それによって成り立つ繁栄と平和を破壊することに他ならない。だからこそ、「個の自由」の上に成り立つ繁栄と平和を「保守」すべく、フェアネスの精神に則りそのような病的なイデオロギーに対し毅然たる態度で戦うことが求められる。私が言う「自由保守主義」というのは、畢竟そういうことである。つまり、世の「保守派」の一部が宣うような国家主義は、それが「個の自由」を否定しすべてを国家に隷属させることを求めるという意味では、私の言う「自由保守主義」とは本質的には相容れない存在である。もっと言えば、彼ら(保守を自称する国家主義者)は、本当の意味で我が国の「伝統」を理解していないし、理解しようという気もないのである。そもそも、我々日本人は古来よりさまざまな外国の文物を進んで受け入れ、我が国の風土に合うように上手く作り変えて定着させてきた。古くは仏教や律令制に始まり、火縄銃や蘭学、カレー、鉄道、近年で言えばキムチやハロウィンに至るまで、あらゆるものを柔軟に受け入れつつ、それでいて我が国の伝統の象徴である「和の心」や「水に流す」といった価値観は捨てずに保ってきた。それでいて、長年続いてきた因習であっても、外圧によってそれが不合理であると気付けば、国民総出でその因習を綺麗さっぱり捨ててしまう潔さもあった。これこそが我々日本人の美徳と強かさであり、また我が国を曲がりなりにも独自の文化を持つ一流の大国に押し上げてきた根拠と言えるだろう。そういう「良き伝統」を今後の繁栄のために保守しつつ、「個の自由」のために「悪しき因習」を打破することが、私の言う「自由保守主義」の本質であるということを述べて本記事の終わりとしよう。

*1:これは「民主主義」を表す英語のdemocracyという単語が、他の「主義」を表す英語接尾辞の-ismで終わらないことを考えれば明らかである。

*2:国政政党としての日本維新の会が掲げる政策を8つのカテゴリで纏めたもの。

*3:民衆の圧倒的な支持により、他の対立政党を遥かに凌駕する勢力を保っているからである。