時給を上げるということ

 一人の自立した大人という、自らの生活費を自力で稼ぐ必要がある立場として、非常に重要なのが「時給を上げる」という営みである。この時給を上げるという営みは、何も給料の良い会社に「転職*1」したりすることによって額面上の収入を上げることだけではない。固定費を下げるということも当然含まれる。もちろんそれだけでは収入は変わらないのだが、毎月必ずかかる支出は確実に減るので、実質的な収入(可処分所得)は上がる。つまり、実質的に時給が上がるということになる。具体的に固定費を下げる方法としては、例えば有利子の負債であるクレジットカードのリボ払いをやめて可能な限り一括払いにし、余力があればその返済に回すこととか、あるいは今住んでいる家についても、ある程度の条件は妥協して今より家賃が安い場所に引っ越したりすることとか、喫煙者であれば禁煙するといった方法がある。これらに共通しているのは「トータルで見て無駄な出費を減らす」ということに他ならない。言い換えれば、支出面での「合理化」である。

 もちろん収入そのものを増やすということも重要である。具体的には副業(複業)であるとか、投資とか、あるいは直接的に収入を増やすことではないが将来の収入を増やすことに繋がる自己投資だとか、そういった諸々の営みが含まれる。これらの営みをやらないためのよくある言い訳として、時間がないというのがあるが、それは本業に忙殺されているとかそういう事情がない限り、単に時間の使い方が下手なだけである。何らかの娯楽に全く時間を割かないというのは流石に味気無いだろうが、それでも刹那的で受動的な消費、いや浪費に過ぎない娯楽―典型例としてはソシャゲだとか地上波民放テレビとか、あるいはもっと露骨な例で言えば「夜の店」やパチンコだとか―に時間を割くくらいなら、例えばハンドメイド作品を作って売ったり、自転車を買ってフードデリバリー配達員をやったりして実際にお金を稼いだり、あるいはプログラミングや外国語の学習にあてて将来の自分に対する投資を行うほうが得である。これは今まで浪費されていた支出をカットすることで支出を切り詰め、実質的な時給、すなわち時間あたりの自分の生産性を上げることにも役立っている。

 もっと言えば、仮に本当に「本業の仕事が忙しすぎて他の事をする余裕がなく、それ故にこれ以上『時給』を上げられない」というのであれば、それは今の本業自体が構造的に問題を抱えているということである以上、とにかくその本業とやらからは離れる他ない。これは自分自身の問題というよりかは、所属している組織の問題であるが、これに関してはまた別の機会に改めて書くことにする。

 

 さて、時給が上がるということは可処分所得が上がることと同値であると述べた。これによりどんな恩恵があるか。それは自分の使えるお金が増えることもそうだが、それ以上に同じ金額を稼ぐのにより少ない時間で済むということでもあり、そしてこれこそが最も重要である。すなわち、時間という有限で平等に与えられたリソースを、より効率よく自分のために使うことと同義であり、それによりまた時給が上がって、また時間を効率良く使えるようになる……まさに「正のフィードバック」そのものである。その究極の形が「僕には1日が24時間では足りないよ*2」というほどの濃密な時間の過ごし方である。これは言い換えると「暇が無い」という状態と同じである。

 もちろん逆も同様に言えて、時給を上げるという営みは「暇を無くす」ことに他ならない。今までは「暇」であるが故に発生していた惰性による受動的な営みに充てていた時間を、直接間接を問わず能動的に自らの生産性を高めるための営みに充てることが、結果的に自らの「時給」を上げるのは言うまでもないだろう。

 

 この「暇」というのがまさに危険な代物で、小人閑居して不善をなすという諺がある通り、人は暇でいるととにかくどうでもいいことだとか、トータルで見て損になるようなことしかしない。何より、暇でいるということは、この高度な情報化社会においては、ノイズでしかないゴミ情報を何の対策もなく、それも大量に受け続けるということと同値である。よく、何かに集中して取り組んでいると、周りで起こっていることに気づかなくなるというが、あれは(その時の自分にとっては)余計な情報が自動的にシャットアウトされている状態のことである。すなわち、暇であるということはこの逆で、何にも集中していないがゆえに大量のゴミ情報をひたすら受け続けることと同じである。

 ノイズ(ゴミ情報)を何の対策もなく受動的に受け取り続けるということは、すなわち脳内がそういった「どうでもいい話題」に占拠されることに他ならず、そういう状態は諸々の神経症のもととなる。風邪は万病の元というが、ことメンタルヘルスにおいては、ノイズは万病の元ということになる。ゆえに、種々の依存症や躁鬱病といった精神疾患神経症)の寛解の基本は「日々を有意義に過ごす」ことになる。

 

 話を元に戻そう。日々の積極的な活動により暇を無くし、結果的に「時給=生産性」を高めるという営みは、金銭的・物質的な充足感だけでなく、精神的な充足感を齎し、同時に精神的な不調を遠ざけることに繋がる。つまり、生産性が高くて得をすることは山程あれど、損をすることなど一切存在しない。そういう意味でも生産性が高いことは自分自身にとって良いことずくめである。そして、生産性を高める営みは、結果的にマインドセットを生産性を上げる方向に最適化するので、一度向上した自らの生産性はそう簡単に劣化しなくなる。

 「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなるだろう」というのは新約聖書*3の言葉だが、これを生産性という概念で言い換えれば「生産性の高い者はより生産性を上げ、生産性の低い者はもっと生産性を落とすだろう」ということになる。これも先程述べた通り、日々を暇無く有意義に過ごす事で生産性を高めると、結果的に自らのマインドセットが生産性向上に最適化される一方、暇な状態を放置して日々を惰性で生きていると、結果的に脳内がノイズで溢れかえってしまい、精神的な不調和(所謂神経症の本質)を招いたり直接的な仕事の能率が劣化したりするのでますます生産性が落ちていくということに他ならない。つまり、暇な状態を放置するということは、結果的に自らの生産性を下げる負のフィードバックを放置することと同じである。

 これらの生産性に関する諸々の効果は、何も自分自身だけにとどまらず、自分自身と付き合う人についても同様のことが言える。生産性が低い状態を放置していると、いつの間にか自分にとって有意義な影響を与えるような生産性の高い人が自分から離れていき、逆に生産性が低く自分にとって害となるような人ばかりが集まっていく。まさに「類は友を呼ぶ」というのだが、これは生産性を高める方向にマインドセットを切り替えると、必然的に自らの生産性を下げるような質の低い人間関係を切り捨てることになるので、結果的に生産性に劣る人にとってはそのように見えるということである。

 

 自らの生産性を下げるのは、意図的に暇な時間を作ってその間ダラダラと過ごすだけでいいので、非常に簡単である。一方、自らの生産性を上げるとなると、日々を暇なく精力的に過ごすことになる以上、やはりどうしても「しんどい」と感じてしまいがちである。とはいえ、その「しんどい」を乗り越えた先には明るい未来が待っている。

 今回はここまでとする。そのうち、この話題についてはまた別の記事を書くことになるかもしれないが、今は他の話題を温めているので、そちらを書くことを優先する。

*1:なお、ここでいう「転職」は、あくまでも所属する会社を変わるという以上の意味合いを持たない。これに関してはこの記事の本題ではないので、また別の機会に書くことにする。

*2:山田かまち(画家・詩人)の言葉。彼は不慮の事故により17歳という短い生涯を終えたが、死後親族の手によって刊行された画集・詩集によりその類稀なる才能が知られることとなった。

*3:マタイによる福音書など。他にも新約聖書の中でこのフレーズはたびたび登場するので、具体的な登場箇所については割愛する。