人間を外すということ

 人間を外す。最初にこの言葉を聞いたとき、私は何のことだか全く理解できなかった。より粒度の細かい表現をすれば、今まで私の脳内にあった日本語のコーパスにおいて、「人間」という名詞と「外す」という動詞が全く結びついていなかったので、それらを繋ぎ合わせた「人間を外す」という表現が、自分の脳内において定義付けすらされておらず、計算機でいうエラーを吐き出してしまったということになる。

 と、こういうしょうもない前置きはここまでにして、改めて「人間を外す」ということについて説明しながら考えていくことにする。

 

 人間を外すとはどういうことか。それはすなわち「人間的な諸々に由来する要素を切り離す」ということである。別の言い方をすれば、自然法則だとかシステムだとか、そういうものをベースに考え、可能な限り人間に由来する様々な影響を排除していくことであるとも言える。

 そうは言っても、社会を形作っているのはとどのつまり人間なんだから、本当に「人間を外す」なんていうのは無理なんじゃないのかと思ってしまうのが普通である。実際、この言葉を初めて聞いたときの私自身の感想というか認識もその通りであった。しかし、実のところ人間社会をより豊かにしていくようなイノベーションは、だいたいこのようにして「人間を外す」ことで成り立っている。機械化なんていうのはその最たる例だ。

 ここで、囲碁や将棋、麻雀のAIについて考えてみよう。これらのマインドスポーツにおいて、AIはもはや人間のトッププレーヤーに匹敵する実力を叩き出している。そして、これらのAIが、「人間を外して」構築されているのは言うまでもないだろう。これらのAIは過去の膨大な対局をもとに作られているわけだが、AIが実際にやっているのは「評価値の計算」だけである。しかし、この評価値の計算を、大量かつ高速にやってしまうのが機械たるAIであり、そこに棋風や雀風といった「人間的な」要素は一切入り込んでいない。そして、このことにより、所謂棋風やら雀風というのは、単なる思考の癖(バイアス)に過ぎないということも分かってきた。

 そもそも、人間は生き物であり機械ではない以上、全く同じことを寸分の狂いもなく延々と繰り返すようにはできていない。それこそプロ野球で最も制球力に長けた投手でさえ、同じ球種で同じような球速や変化を示す球を、同じ場所に投げ続けるということは到底できないだろう。球を投げるという動作は見た目以上に人体に負担をかけるので、当然疲労も蓄積するし、そうなってくるとベストコンディションからは遠ざかっていく一方である。仮に疲労の影響を無視したところで、球の握りやリリースポイントといった「物理的な初期値」を全く同じにすることはできない。本人は同じように握り、同じ位置で投げているつもりでも、僅かにズレているので結果的な球の軌道も変化する。これも人間が生き物であるからの話で、もっと言えばその「揺らぎ」こそが生き物の生き物たる本質である。

 

 纏めると、人間を外すということは、人間という生き物に由来する「揺らぎ」だとか、あるいは人間的な感情や思考、行動の癖を排除することにより、物事をシンプルな自然法則だとか、単純明快なルール・システムに帰結させるという流れに他ならない。言ってしまえば「単純化・一般化」である。

 そして、人間を外すという流れの反対にあるのが、所謂「寄り添い」であり、それはすなわち「個々の人間に対する最適化」であり「具体化」である。人間というのは社会的な生き物である以上、このスキルを身につけた個体がより生存競争において有利になり、結果として人間社会には欠かせない概念となったが、この「寄り添い」はある意味では非常に難しいもので、やり方を間違えたりするとあっという間に自分自身はおろか「寄り添う」相手すらも破壊しかねない諸刃の剣のようなものである。これについてはまた別途書くことにするとして、今は「人間を外す」ことについてだけ考えよう。

 

 人間を外すというのは、言ってしまえば「母なる偉大な自然の摂理(その最たる例が物理法則である)に従う」ということである。ここで、日本社会の2つの特質について考えたい。日本社会は非常にハイコンテクストな社会(すなわち、個々の人間に深く依存する社会)である一方、人間的な諸々を排したありのままの自然を尊ぶという文化が残っている社会でもある。この2つの一見相反する特質が共存しているのがこの日本という国の不思議なところであるが、今はそれよりもこの2つの特質の違いについて考えることにしよう。

 「和を以て貴しと為す」というのはこの日本国に古くから伝わる、言わば「常識の第1条」みたいな概念であり、この国のハイコンテクストな一面を象徴する言葉であるとも言われている。ただ、この概念を単なるハイコンテクスト性の象徴であるかのように捉えるのは、どうも一面的な解釈でしかないと考えられる。

 私に言わせれば、「和」というのは言ってしまえば社会の最適化であり、究極的なゴールとしては全体最適そのものである。そして、その本質は「母なる自然に従う」ことそのものであり、ここまで述べてきた「人間を外す」ということと同義であると考える。古の日本人は、地震や台風、火山噴火といった自然の脅威を現代人よりもはるかに畏れており、それゆえに自然そのものを神々として崇め奉るという文化を築いてきた。そしてそこに人間的な諸々は入り込む余地がないことを、古の日本人は肌感覚として理解していたのは間違いないだろう。いつしかそれは日本人にとっての共通認識(コモンセンス)となり、もともと「言わなくても分かることは敢えて言わない」という日本語という言語の性質も合わさって、以心伝心という言葉に象徴されるようなハイコンテクストな文化を生むことになった。その一方で「人間を外して」ありのままの自然を第一に考えるという思考の型もまた脈々と受け継がれていった。だから、この2つは元を辿れば同じところに行き着く価値観であると言えるだろう。大和心(大和魂)というのは、言ってしまえばここで述べてきた内容そのものである。

 

 先程、「和」とは究極的には全体最適そのものであると述べた。そして、大和心というのはその全体最適を実現するための思考の基本であるというのも、これまで述べた論に従えば自ずと明らかになる。本居宣長はこの「大和心」の対概念として「漢意」を定義し批判したが、私のこれまでの論をこれに当て嵌めると、漢意というのはまさに全体最適の逆である部分最適そのものになってくる。

 宣長儒教や仏教といった外来の思想を指して「漢意」と呼び批判した。その中で、(彼が生きていた江戸時代中後期当時の)仏教については神仏習合という形で日本古来の祖霊信仰と固く結びつき土着化していたという認識があったのでそれほど強く批判しなかったが、朱子学という原理主義的な形で当時の日本に入ってきて、いつの間にか社会を支配する思想となった儒教については特に強く批判していた。考えてみれば、儒教というのは中国大陸という自然の脅威が少なくそれ故に人口過多になりがちな土地で生まれた、究極的に個々の人間関係に依存する哲学・思考の型であり、言ってしまえば「人間を外す」という営みの反対に位置する流れである。宣長は当時の知識人の中では誰よりもこのことに深く気づいていたので、これを漢意と呼んで強く批判した。その一方で、これまで述べた「人間を外す」ことにより全体最適を目指す、日本に古くから伝わる価値観を再発見し、大和心とか惟神の道と名前を付けて、当時の日本社会に広めた。

 

 今回はここで筆を擱く。人間を外すというのは、実はこの日本においては、古くから特に意識されることなく自然と受け継がれてきた思想そのものである。そして、今の日本社会に蔓延る諸問題が、実は儒教的な権威主義に原因があるということについては、いずれまた書くことにしよう。