束縛・依存という病

 束縛というのは本当に厄介な代物である。何しろ、束縛している側は相手を束縛している自覚がない一方、束縛される側からしてみれば嫌でも束縛している相手を意識させられるものであり、実際に自分自身の心理的安全性やトータルでの生産性*1を毀損されるという意味でも迷惑千万なものである。そして、その束縛という歪んだ人間関係の行き着く先がDVであったりストーカー行為であったりする。DVやストーカーというと男女関係のそれが目立つが、別にこれは男女の恋愛に限らず、あらゆる人間関係について成り立ちうるものである。

 先程、束縛されるということは自分自身の心理的安全性や広い意味での生産性を損なうことに等しいと述べたが、実は束縛している側についても同じことが言える。相手を束縛しないと維持できないような人間関係に依存しているというのは、即ち人間関係という本来は非常に流動的なものを、無理やり固定化しているわけだから、必然的にその時々の自分自身にとっての最適からは遠ざかることになる。ゆえに、誰かを束縛するということは結果的には自分自身の心理的な意味での最適化を妨げることと同じで、その先に待っているのは破滅である。

 

 先程、束縛というのが結果的に自らの生産性を低下させると述べたが、束縛というのは実は「特定の人間関係に対する依存」と言い換えることもできる。そう、アルコールやニコチン、あるいはギャンブルや買い物、性的逸脱に対する依存と、構造としては同じである。いずれにおいても、依存というのは長期的に見て自らの人生における「最適化」を妨げることに繋がり、放置すればやがて破滅へと転げ落ちていくのは言うまでもない。そして、これらの「依存症」は、本質的には神経症の一種であり、適切なメンタルケアによって寛解されるべきものである。その具体的な手法として最も普遍的で効果があるのは、以前の記事で述べた通り「暇を無くす」ことに他ならない。暇でいることによって日々大量に受信するノイズ(ゴミ情報)を、有意義な活動によって薄めることにより、ノイズの影響を下げることに意味があるからである。別の言い方をすれば、大量のシグナル(意味のある情報や生きた現場知など)を日々自ら生産してノイズを薄めることにより、S/N(シグナル/ノイズ)比を正常化することが、神経症の原因となるノイズの悪影響を抑えることに繋がるということに他ならない。

 そして、このやり方は、束縛されている側と束縛している側双方に対して効果を発揮する。束縛されていた側からしてみれば、暇を無くすことによって自分を束縛してくるような人(長い目で見れば自分自身の人生においては確実に有害な存在である)を無視できるわけだし、束縛していた側も今まで他人を束縛することに充てていたエネルギーをより有意義なことに使えるので、相互の関係も、適切な距離感が生まれるという形で自ずと改善されていくことになる。(その行き着く先が相互の絶縁だったとしても、決して悪いことではない。所詮束縛ありきでしか成り立たないような人間関係など、無い方がマシだから。)これこそが、束縛という歪んだ人間関係を、適切な距離感と対等性の担保、そして相互尊重という形で健全な人間関係に改善させる流れであり、同時にそれはあらゆる依存症の寛解のプロセスとしても有用であることは今更言うまでもないだろう。今まで依存していた過度の飲酒や賭博といった対象が、今の自分の人生にとっては所詮ノイズにすぎないことを自覚し、それを精力的で有意義な活動というシグナルで「薄めていく」ことで、自ずとS/N比を正常化させることに繋がるからである。

 

 さて、束縛と依存症というのが本質的には同じようなものであるとはすでに述べた通りであるが、これらに関してはここまで述べてきた寛解の方法とは別に、ちゃんとした予防法があることも書いておきたい。それはすなわち前回の記事で述べた「人間を外す」ことである。より具体的に、この文脈に即して言い換えるとすれば、他人は所詮他人と割り切って適切な距離を置くことである。

 この「他人は所詮他人と割り切る」というのは非常に重要である。もっといえば、それは「当たり前の感覚=常識(コモンセンス)」として認識されるべき内容である。自他を問わず誰であれ、他人の人生を完全に自分のコントロール下に置くことは、その相手から「個の自由」を完全に剥奪して奴隷状態にしない限り不可能なことである。現代社会において、「個の自由」は前提条件である以上、実質的に(自立した大人である)他人を支配するというのは不可能といっていい。すなわち、他人の人生に言動を通じて何らかの働きかけをすることは可能だが、他人の人生そのものを変えることはできないということを当たり前の常識として認識しておくことが必要である。別の言い方をすれば、自分は他人の人生を生きていないし、他人は自分の人生を生きていないという、ただそれだけの話である。

 この「当たり前」が身についていないと、他人の個人的な領域にまで平気で土足で踏み込むことになるし、自分自身も他人の言動に一喜一憂して結果的に心を他人に支配されてしまうことになる。これこそが、束縛や依存に対する「予防」たる所以である。というか、この「当たり前」が広く周知され、そして徹底されていることが、自由社会の前提条件であるとも言えるだろう。

 

 自分は自分、他人は他人と割り切って、互いにある一定のラインを定めてそれ以上は深く干渉しないというのが、自由な個人によって成り立つ社会の前提条件であると述べたが、その逆が個の自由が抑圧された権威主義全体主義の社会であるのは言うまでもない。そして、これらの社会はみな例外なく、イデオロギーという「人工物」に支配されている。すなわち、本来は自然法則や常識の上に成り立ち、実際に起きている現象に適応して変化すべきものである人間社会を、凝り固まったイデオロギー固定観念)ありきでそれに社会が適応すべきというふうに設計し、人間もそれに合わせられるように支配するという歪なものにしてしまっている。当然そんな社会は現実に即していないので、あらゆる面において歪みが生じることになる。イデオロギーありきの権威主義社会とは、結局のところそうやって社会が現実に適応していないが故に生じる歪みを放置し、むしろその歪みをより大きくするという意味で、持続可能な社会ではないと言えるだろう。

 だからこそ、俗に言う左右を問わず、イデオロギーというのは基本的には唾棄されるべきものでしかないし、もっと言えばそれに脳を支配されている状態の人間は、嗜癖に対する依存や特定の他人に対する束縛と同様の状態にあると言っていいだろう。つまり、イデオロギーというのは一種の神経症であると言える。となると、イデオロギーに脳を支配されてしまう原因が、その人が暇を持て余しているからというのも自ずと見えてくるだろう。現実社会を精一杯生きている、すなわち切って血が出るような濃密な活動で日々を埋め尽くしているような人は、どう頑張ってもイデオロギーに脳を支配される余地などない。イデオロギーに脳を支配されるのは暇人であるというのはその対偶として成り立つが、それ以上に脳内が情報のゴミ屋敷になっているので、そのような異常な状態を満足させるためにイデオロギーに依存してしまうとも言えるだろう。つまり、イデオロギーに社会を支配されないためには、個々人が日々を有意義に過ごすのが必要不可欠であり、そのためには暇人を生み出し暇人でいることを正当化するような構造を徹底して否定し破壊していく必要があるだろう。

 

 今回はここまでとする。他にもまだ書きたいことはたくさんあるので、書けるネタがまとまったものから順次このくらいの分量の記事として更新していくことにしよう。

*1:心理的安全性は、生産性を担保する重要な要素の一つであるのは言うまでもない。