信義・信頼・恩義・感謝〜普遍的な美徳

 人間は、究極的には己の損得ベースで、生物的な本能に従って生きている。しかし、人間は集団で生きている以上、個々の「欲望」同士は必然的に衝突する。甲にとっては利益となる行動が、乙にとっては損害となるというのはありふれた話である。このような衝突を丸く収め、人類という種や、もう少し狭くとって国家や会社、家族といった共同体全体の最適を目指すためにあるのが、道徳や理性、宗教、民主主義といった概念であるのは言うまでもないだろう。その中でも、信義を貫くというのはというのはあらゆる文化圏において尊ばれる徳目であると言っていいだろう。

 信義を貫くというのは、時には自らに不利益な選択であったりすることもある。ただ、信義を貫き続けることによって得られる相互の信頼関係は、長い目で見ればいずれ己に利益をもたらすのは間違いない。信義を軽んじ、私利私欲によってのみ動く者は、目先の利を最大限に追うことはできても、いずれその周りから人は離れていくだろう。逆に、信義を重んじ、それに違わぬように常日頃から自らを律して行動する者は、自然と他者からの信頼を積み重ね、やがてその恩恵は自分自身のみならず関わり合う者すべてに及ぶだろう。

 

 さて、信義を貫くという人類社会に普遍的に存在する美徳を実践する上で、私が特に重視しているのが、恩を忘れないということである。恩を忘れないということは、すなわち「自分が受けた恩に対して感謝の気持ちを忘れない」ということである。そして、自らの不行状により、恩義を感じている人を傷つけ、その信頼を毀損してしまうようなことがあれば、己の罪を深く恥じて反省し、その罪を償うことで相互の信頼の回復を目指そうとする姿勢を示すことである。ここで重要なのは、恩義というのはあくまでも受けた側がありがとうと感じる気持ちであって、決して施した側が「私に恩義を感じよ」と強制するようなものではないということである。

 恩というのは、あくまでも恩を受けた側の感情である、恩を施した側への感謝に端を発するものである。だから、恩を施した側が、将来的な私利を見込んで恩を施したとしても、受けた側がそれに感謝の気持ちを抱けば恩義は成り立つし、逆に善意のつもりでやった行為であってもそれを有難迷惑だと思うのであればそこに恩義は成り立たない。そして、恩を施した側としては、そんなこともあったなとあっさり忘れてしまったとしても何ら問題はない。(むしろ、過去に恩を施したことを有難く思えなどと思い上がった態度を取ると、相手からしてみれば恩着せがましいという評価になり、煙たがられるだけである。)恩を施すというのは、偏に「困っている人を捨て置けない」という純粋な善意に基づく行為であると私は思うし、実際に私の行動指針としてもその通りでいたい。

 一方、恩を受けた側としては、自らが受けた恩恵に感謝の気持ちを抱くのであれば、そのことを忘れずにそれに報いようという感情が湧き上がってくる。そして、恩義を感じている人に対する信頼という感情もまた生まれてくる。世間で言う「義理堅い人」というのは、恩を施した側としては「そんな大昔のこととっくに忘れたよ」というようなことであっても、そのことをいつまでも忘れず、機会があればいろいろな形で感謝の気持ちを伝え、それに報いるような行動をしようという姿勢を取る人に他ならない。このような態度は、当然過去に恩を施した側としても、逆に「過去の自分のちょっとした善意に対して、ここまでして報いようとしてくれるのか」という気持ちを自然と起こさせて、感謝の意をお返しするということにもなるだろう。そういう意味でも私は義理堅い人でありたいと思う。別に義理堅いと他人に肯定的に評価されたくてそう思っているわけではなく、ただ道義に尽くす者として義理堅くありたいというだけである。

 

 さて、ここまで「恩」について述べてきた。恩義を感じている相手には、それ相応の態度をとり続けることが、相互の信頼を積み重ねるのが当然であるが、自らの不行状により恩義を感じている相手を傷つけてしまい、信頼を毀損してしまうこともあるだろう。このようなことをしてしまうのを「恩知らず」といい、非常に不道徳な行いであると見做される。ここで、自らがその行いに対して、恩義などどうでもいい、自分は自分のやりたいようにやるだけだ、というのであればそこで関係は断ち切られ、復活することもないだろう。しかし、恩義を感じている相手を傷つけてしまったという悔悟の念があり、どうにかして失われた信頼を取り戻したいという真心からの思いがあるのなら、そこに反省と償いという気持ちが自然と生じてくる。その中で、自らの不行状を認めてそのような行動に至る経緯を振り返り、再び過ちを繰り返さぬように反省し適切な策を講じるという一連の流れが、やがて信頼を傷つけてしまった相手の心を動かすと言えるだろう。

 ここまで、人の信頼を損なうという罪を犯した側が、その失われた信頼を取り戻そうという真摯な思いによる改悛の流れについて述べてきた。では、信頼を損なわれた側からはどうだろう。せっかく今まで相互に信頼を築き続けてきた相手に裏切られるというのは、とても堪え難い苦しみであり、その相手をもう二度と許さないと思うようなことがあっても何ら不自然なことではないだろう。信頼を積み重ねるのは長い時間を要するが、その信頼を損なうのは一瞬であり、また信頼を回復するにはそれ以上に長い時間を要する。あるいはもうその失われた信頼は二度と取り戻されないかもしれない。ダンテ・アリギエーリの「神曲」において、地獄の最下層であるコキュートスは「裏切者の地獄*1」として描かれた。これはダンテが幾度となく裏切られてきたことに対する怒りをもとに、裏切りを最も重い罪として描いたからである。裏切りというのは人を失望させるという意味でも、それだけ重い罪であると言えるだろう。そして、それが自分に恩義を感じている相手であるならば尚更である。

 とはいえ、かつて自らを裏切り落胆させた者であっても、そのことを悔いて自身の罪を償おうという強い意志をはっきりと示し、申し訳なかったと謝罪すれば、裏切られた側としても、その人のことを根底で信じているのであれば、罪を許すことは普通にあり得る。場合によっては、雨降って地固まるという諺のごとく、かつての過ちを認めて反省し、ある程度の時間をかけて距離を置くことで互いの存在の有難みを再度認識し、時が満ちたところで謝罪するという流れにより、相互の信頼がまた深まるということもあるかもしれない。罪を犯したところで、その罪を悔いて改めるという真摯な思いに基づく誠意ある行動を取れば、罪そのものは消えずとも罪によって生じた不信感を拭い去ることはできる。

 

 今回はここで筆を擱く。誠意と人道に基づく行いこそが、相互の信頼を生み、過ちを犯してもそれを悔い改めることで完全に険悪な関係に陥ることを防ぐこともできるはずだと私は考えている。私はそういう意味でも道徳的な人でありたいし、今もそのように道徳的であろうと日々を生きている。

*1:それぞれ4つの同心円に区切られ、外側から順に肉親への裏切り、祖国への裏切り、客人への裏切り、主人への裏切りとして描写される。そしてその最も中心には、神を裏切った堕天使ルシフェルが幽閉されている。