暴力から離れるための「その日暮らし」

 恥ずかしながら、かつての私は「暴力による解決」を正当化しどこかそれに期待していたことがある。もちろん、真っ当な価値観の持ち主であれば、暴力による解決などとても受け入れ難いだろうし、法治国家としてもテロリズムの肯定に他ならない。それ以前に、暴力は結局のところ憎悪を生み出し、暴力の連鎖しか生み出さない。

 暴力というのは何も直接ドンパチやったり人を殺めたりすることだけではない。詐欺のような経済的な暴力だってそうだし、売買春の正当化のような性的な暴力だってそうである。どんな形であれ、暴力というのはいつだって誰かを悲しませるし、憎悪を増幅させるばかりである。そして、そんな社会の行き着く先は、結局のところ恐怖政治だったり、治安が崩壊したスラム街だったりする。暴力というのはどんな形であれ、行使した人の自己満足以外には何も生み出さないし、負の感情ばかりを増幅させる。いや、もしかしたら暴力に訴えた当事者さえも心が満たされることはないだろうし、満たされぬ心の空白を埋めるために更なる暴力へとエスカレートしていくかもしれない。何れにせよ暴力は誰も救わないし、本来なら救われるはずの人さえ地獄へ叩き落とす。

 

 さて、私がなぜこんな殺伐とした価値観に染まってしまったか、その経緯についてここで振り返っておかなければならない。

 私は愛情に恵まれない少年期を過ごしてきた。より正確に言うと、機能不全家庭における構造的な歪みというかしわ寄せを、すべて押し付けられた先が自分であった。

 私の実の両親は物心付いたときには既に離婚していた。私は父親に育てられ、時折母と面会する機会があった。少なくとも、義理の母親、いや母親のような何かとその連れ子がやってきて再婚するまでは、実の母親と面会することに何ら障壁はなかった。

 義理の母親となのるその女性が連れ子の娘と共に我が家に住むようになってから、私を取り巻く運命は一変してしまった。その女性は私に対して、ありとあらゆる意味で抑圧を続け、厳しく束縛し、私自身に対する支配を強めていった。その結果、私は反抗期を通じても大人しく従属的な性格から抜け出すことができず、その年代の子供らしい子供でいることはできなかった。もっと言えば、その女性はマスメディア関連の勤め人かつマスメディア脳の人間であり、そもそも勤め人に向かない気質かつマスメディア脳ではない私とは相容れるはずがなかったし、私の父親もそうであった。だが、父親は彼女と同居することを優先するあまり、私自身とよく似ているはずの、自らの本来の気質をかなぐり捨てて洗脳されていった。

 

 こうして、自分は「偽りの家族共同体」における歪みを一身に引き受けさせられ、その結果家族という最も身近な存在に対して不信感を抱くようになってしまった。そこから、結局は暴力しか自らを救わないという間違った思い込みを抱くようになってしまった。だが、実のところ私は暴力を振るうということ自体がそもそも好きではないし、もっと言えばできるはずのない人間だった。お世辞にも腕っ節の強い人間ではないし、それに暴力団や半グレと言われるような人々の間に入ることもできないようなそういう性格であるにも関わらず、気づけば「暴力以外に自らを救う術はない」と誤った思い込みをするようになってしまった。

 中身のない人ほど虚勢を張りたがる。これはまさにかつての自分自身を端的に表す言葉であった。そもそも体当たりでの喧嘩なんてできないし、本来はそういうのを避けるような性分であるにも関わらず、自分にとって実際は有害無益な価値観を正当化するために虚勢を張っていたというのはまさにその通りであった。

 

 性的なものに対する依存も、先程述べた暴力的な「自力救済」への渇望と同じようなメカニズムで増大していった。実際に、愛情に恵まれずに育った身としては、真っ当な愛情から生まれる健全な感情など持ち得るはずがなく、歪んだ依存関係を前提とするような愛情でさえ、本来の意味での愛情と勘違いして渇望するようになっていたのは事実である。かつて、私自身はもしも女の子として生まれていたら大学をサボってまで悪質な売掛をするホストにバイト代を注ぎ込み、結果としてこっそり性風俗店で働くようになったり立ちんぼ(街娼)になっていたかもしれないという、あまりにもネガティブな想像ばかりしていた。そのような想像に走らせるのも、元はと言えば愛情への渇望であり、それが歪んだ恋愛もどきの性関係や性行為そのものへの衝動としてそうなっていただろうという、私自身の過去を振り返っての考察だった。とはいえ、そのような「考察」は、性風俗のような「汚い」世界を忌み嫌うような人を大いに傷つけるのは事実であるし、実際に傷つけてしまっていた。このことについて、私は今も反省しているし、そのようなことは考えないで、代わりに理系女子として活躍していたとかそういうポジティブなことを考えるようにしている。それが私のネガティブな発言に傷つけられた人たちへの、せめてもの罪滅ぼしだと思っている。

 

 話を元に戻すと、私は愛情に飢えていたがゆえに「最後はターミナル駅で通り魔殺人事件を起こして果てるしかないだろう」などと考えていたのは事実である。少なくとも腐敗しきった実家から距離を置くまではそうであったし、自死をほのめかすことすらあった。しかし、私が実家から距離を置くようになり、日々を自分自身の力で生き延びることに専念し、精神的なケアを受けていくうちに、そのような殺伐とした価値観はどんどん薄れていくはずだった。しかし、自分が実家で受けた心の傷はそう簡単に癒えることはなく、それゆえにそういうネガティブな発想を続けてしまい、やはり同様にそのような発言を聞いた人を傷つけてしまっていた。もうこのような発想は二度としないことを、この場を借りて誓いたい。

 だからこそ、私は「その日暮らし*1」をテーマに、会社を辞めてUber Eats配達員になったりしてまで、日々を精力的に生きるようにしている。その日暮らしといっても、決してネガティブな意味(毎日生きていくだけでやっと)ではなく、日々を「やるべきこと」と「やりたいこと」、「やると決めたこと」で埋め尽くすという、非常にポジティブな意味の話である。この「その日暮らし」は、言い換えれば今まで腐敗しきった実家やその周辺の環境で受け続けてきたノイズの悪影響を可能な限り縮減するために、日々を意味のある活動で埋め尽くす、すなわち「シグナル」でノイズを薄めることでS/N比を正常化するという営みである。日々を精力的に、それこそ"carpe diem."(日々を掴め=今を一生懸命生きよ)の精神で過ごすことで、そういう暴力的な発想に至らせるような「暇」を無くすことが、本質的に最も重要であり、今後の自らの人生の基本方針であることは間違いない。

 

 私が不遇な環境故に暴力的な発想に頼らざるを得ず、その結果過去に人を傷つけてしまったという事実を隠蔽したり抹消したりすることはできない。ただ、今を一生懸命生きることで、そのようなネガティブな発想に走らないようにするということで、傷つけてしまった人へのせめてもの償いとしたいし、今後同様のことが二度と起こらないようにしたいと私は考えている。今後も私の人生における難局は限りなくあるだろうが、その度に「今を一生懸命生きる」ことを思い出して、全力で乗り切るようにしたい。というわけで今回の記事の終わりとする。

*1:広島東洋カープ2023年シーズン監督・新井貴浩氏の言葉。