寄り添いと切り離し

 人に寄り添うのは本当に難しい。それもそのはず、他人の感情というのは誰であれ完全には分かり得ないし、個々の事情はそれぞれ異なるがゆえに、同じような事象についても適切な対処は人それぞれで変わるからだ。これは何も所謂「空気が読めない発達障害」でなくても、誰にとってもそうである。

 もっと言えば、人に寄り添うということは、本質的にその相手が自分自身に対して多かれ少なかれ依存することを正当化するのとある意味では同じである。この依存というのが危険な代物であるというのは以前の記事(以下リンク参照)で述べた通りである。一度依存されて、それがエスカレートすると自らを苦しめることになるわけだし、ひいては共倒れという最悪の結果を招きかねない。だから人に寄り添うのは難しいし、ある意味ではリスクを伴う行為であると言えるだろう。

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 とはいえ、人に寄り添うということで得られる信頼関係というのは非常に価値があるものではあるし、寄り添ってもらうことで心の安寧が得られるのもまた事実である。そして、寄り添いによって得られた心の安寧という価値に対して、寄り添ってもらった者が寄り添った者に感謝の気持ちを抱くことは自然な感情と言えるだろう。だからこそ、長期的な信頼関係の構築のために、リスクを負ってでも人に寄り添うことには意義があると言えるかもしれない。そういう意味で、寄り添いというのは諸刃の剣である。

 

 さて、寄り添うという営為についてここまで述べてきたが、寄り添いというのは別の言い方をすれば「他人に無条件に寄りかかられることを許す」ということに他ならない。そして、他人に寄りかかるというのは、依存という歪んだ人間関係の一歩手前であるのは前に述べた通りである。だから、適切な距離感を維持しつつ相手に寄り添うためには、どこかでその相手を「切り離す」必要が出てくる。切り離すと言っても、別に相手を冷たく突き放すということではなく、むしろ相互に健全な関係を維持するために適切な形で距離を取るということである。そして、この「切り離す」という概念を実際に具体的な行動に移す上で欠かせないのが、また別の記事(以下リンク参照) で述べた「人間を外す」という概念である。

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 人間を外すというのは、端的に言えば人間が絡んでくるような諸々の事象をいったん切り離して、人間(特に複雑な人間関係)とは無関係な事実だけに基づいて考えるということである。そうすると、自ずと「寄り添い」を求めている人が訴えていること(その人が解決したいこと)の本質、すなわち「本当に解決してもらいたいこと」が浮かび上がってくる。そもそも寄り添いを求めるというのは、その人が事の大小はともかくとして何らかの問題や悩みを抱えており、それを一人で抱え込みたくないというメッセージの発信である。そして、そこには寄り添いを求める当事者のグチャグチャした感情があり、それを整理したいという訴求も隠れているということも付言しておく。つまり、寄り添い―寄り添われという関係には、必ず何らかの「問題」が隠れているということが言える。

 そうなると、寄り添いという営為そのものは「共感」という感情的な行動ではあるが、その先にあるのは「問題の解決」という感情的ではなくむしろ論理的な行動であるという結論に辿り着く。すなわち、寄り添う側としては、寄り添われる側が発している「助けて(Help me!)」というメッセージを受けてそれに答える中で、どうすれば本当に相手を助けられるかというのを考える必要が出てくる。その中で、「人間を外して」物を考えると、問題の本質が見えてきて(より細かく言うと、人間とは無関係な構造に由来する問題がその有無も含めて浮かび上がってきて、その中で相対的にではあるが人間に由来する問題が浮かび上がってきて)解決へと近づくことになる。

 逆に、ただ闇雲に寄り添うだけだと、人間を外すという思考を経ていないので、寄り添われる側のグチャグチャした感情を整理できず(より正確には、そういうグチャグチャした感情を整理するための端緒を見つけられず)、むしろそれに呑み込まれていくことになる。そうなってしまうと、寄り添いを求めている側が本当に訴えている「問題の解決」からは唯々遠ざかっていく一方になり、結果として依存やら束縛やら、共倒れという本質的な解決とは真反対の方向に向かってしまう。

 

 ここまで、寄り添う側からの「人間を外す」という考え方の意味について述べてきたが、人間を外すというのは寄り添われる側にも当然役に立つものである。寄り添ってくれる人が人間を外して考えることで、寄り添ってもらう相手が寄り添ってくれる人に依存するという好ましくない構造に陥るのを防いでくれるのは言うまでもないが、寄り添ってもらう側も「人間を外す」ことで、寄り添ってくれる相手も結局は(自分の人生を生きているわけではない)他人に過ぎないと割り切り、寄り添ってくれる側が導き出した解決への端緒に気づくことで、自分自身の力で問題の解決へと近づくことが容易になるというわけである。

 もちろん、寄り添われる側が「人間を外す」ことで得られるメリットはこれだけではない。寄り添ってもらったことに感謝するのは信義則の観点から当然としても、その感謝の対象はあくまで寄り添ってくれるという善意の行動に対してであるということを意識しておくことで、誰からの寄り添いであっても、それが結果的に自らにとってプラスになるのであれば受け入れるという公平な態度を取ることができる。だから、依怙贔屓ではない公平な人付き合いができ、同時に特定の誰かへの依存を避けることもできる。

 

 ここまで、寄り添う側と寄り添われる側の双方において、相手を「切り離す」ことの重要性について述べた。他人の痛みに共感するというのは人間としての情の表れではあるが、それでも結局のところ「他人は自分の人生を生きているわけではないし、自分もまた他人の人生を生きているわけではない」ということには変わらない。だから、どこかでお互いに線引きをして(別の言い方をすれば自他の境界をはっきりさせて)、自分自身が抱えている問題を自分自身が主体となって解決できるようにする必要がある。義理人情を重んじるというのは、そういうところまで含めてではないだろうか。真にその相手のことを思いやりたいのであれば、相互の「ここからはプライベートな領域なので足を踏み入れてほしくない」という境界線をしっかりと守る必要がある。プライベートな領域を土足で踏み荒らされるのは誰だって不愉快なものである。逆に、そこを守った上で、それでもなおお互いに深く寄り添い、共に助け合うという関係であれば、良い意味での友情(友情と呼ぶには難しいほどの立場の違いがあれば、忠義とかに置き換えてもよい)を長く維持できるだろう。

 今回はここまでとする。人間を外すという、一見「非人間的に感じられる」考え方こそが、実は本当に健全で人間的な関係を維持するために必要であるということだけでも、理解していただければ有難いと私は考えている。人間を外して物を考えた上で、どこかで相手を切り離すということが、寄り添いというリスクのある営みにおけるリスクヘッジとなることは、今後の人生においても十分役立つだろう。