記事が書けなくてごめんなさい

 またも皆さんにお詫びをせねばなりません。実は、ある程度書き溜めていたブログ記事の下書きがあったのですが、最近のあまりにも慌ただしい情勢を見るに、こんな悠長な記事を書いている暇はあるのかということになり、急遽ボツにさせていただきました。本当に申し訳ございません。

 おい、お前は忙しいのを言い訳にしてブログ記事を書くのをサボってただけじゃないか。そう言われても文句はありませんね。でも、本当に今まで書いていた記事の内容に対して、現実の日本社会がそれを上回るレベルで狂っているということに気付かされていて、しかもそれが加速度的に進行しているとなったら、今まで書いてきた記事は何だったんだと考えさせられる一方です。言い訳がましくて本当に申し訳ありませんが、これが現実です。悠長に「さあ、大衆をやめよう」なんて言っている暇はないほど事態はおかしくなっている。私にはそうとしか思えません。

 

 というわけで、本来3000字くらいまで書けてから公開する予定でしたが、結局「中絶」させることになってしまった「さあ、大衆をやめよう」というブログ記事の一部をここに公開するという形で供養させていただきます。とはいえ、お腹の中の赤ちゃんを事情があったとはいえ望まぬ形で天国に送らざるをえなかった母親の悲しみは、今の私の悲しみとは比べ物にならないほど深いでしょうから、中絶という比喩は些か不適切であるということは自覚しております。

 

 大衆をやめるか人間をやめるか。結論から言ってしまえば答えは一択です。人間であるために大衆をやめましょう。とはいっても、これだけでは何のことかサッパリわからないでしょうから、そもそも「大衆」とは何か今回の記事で改めて確認しましょう。

 

そもそも「大衆」とは?

 というわけで本題に入ります。そもそも大衆なる概念はどのようにして生まれ定着したのでしょうか。大衆という単語は英語のmass(マス)の訳語として日本語に定着しています。また、その類義語として群衆という単語もありますね。別の表現で言えば「世間一般の人」というのも、集団を意味する語句こそ無いものの実質的に「大衆」とほぼ同義の表現と考えて差し支えないでしょう。一方で、民衆という単語も大衆という語の類義語として挙げられはしますが、この2つの語が持つニュアンスは微妙に、しかし決定的に違います。人民という単語もやはり大衆という単語の類義語ではありますが、先程挙げた「民衆」よりもさらに「大衆」がもつニュアンスからは逸脱する概念です。では、大衆と民衆はどう違うのでしょうか。ここに「大衆」という概念の本質があります。

 さて、大衆と民衆という一見よく似た語に決定的なニュアンスの違いがあると述べましたが、それは「世間一般の人」という別の語句がもつニュアンスが、「民衆」ではなく「大衆」のそれに近いということで概ね説明できます。いや、インターネットやSNSの発達に伴い人々の価値観が多様化した令和の時代においては、それこそ「世間一般の人」なる概念は最早存在しないか、仮に存在したとしても確実にその指し示す領域が縮小しているのは間違いないでしょう。つまり、民衆というのは単なる「数多くの一般人」ですが、大衆というのはそれに加えて「周囲に流される無定見な大多数」というニュアンスも含まれます。この「周囲に流される無定見な大多数」こそが、大衆なる概念の本質であると考えていいでしょう。そしてさらに付け加えると、先程述べた通り本来であれば「大衆」という概念自体が、民衆の価値観の多様化により既に解体されているべきものであるといっても差し支えないでしょう。しかし、現実を見る限り少なくとも日本という国ではそれが完全に実現しているとは言えません。それはどういうことでしょうか。

 

「大衆」はマスメディアによって作られた虚像である

 大衆という概念は、インターネットによる価値観の多様化により、本来であればとっくの昔に解体されていなければならないものであると述べました。しかしそれが完全に実現していないという現実が我々の目の前に鎮座しているのもまた事実です。それは偏にマスメディアが未だに大きな影響力を持っていることが大きいと言えるでしょう。そもそもマスメディアというのはmass media、すなわち「大衆」のメディアであり、マスメディアの存在こそが「大衆」という概念を作り上げたのは言うまでもありませんね。つまり大衆はマスメディアによって作られた概念であり、もっと言えばマスメディアが作った「虚像」に過ぎません。それもそのはず「大衆」ではない「民衆」はマスメディアが存在するはるか以前から存在していたもので、ちゃんと人々の生活に結びついた概念ですが、大衆なる概念は新聞・ラジオ・テレビが世に出てくるまで存在すらしなかったわけですから。

 しかしマスメディアが大衆という虚像を作って我々の生活を支配しようとしているという現実は未だに現実問題として存在しています。少なくとも今の地上波テレビや新聞、週刊誌を見ていればそのように感じるでしょう。ですが私に言わせればこれらの現実も実は今急速に崩壊へと向かいつつある、すなわち「大衆なる虚像が虚像であると認識されつつある」と断じてしまっていいと考えています。それを引き起こしたのは、抽象的な言い方をすればグローバル化という現象とそれへの「普通の」適応であると考えてしまっていいでしょう。その具体的な事例であるとか詳細は、私の以前の拙文「グローバル時代の新国家論」を読んでいただければよく分かると思いますが、要は「マスメディアによる大衆支配構造」が大阪に端を発するグローバル化への適応で崩壊しつつあるという話です。もっと言えば、その構造を更に支配している「霞ヶ関=東京による支配構造」も同じく崩壊しつつあるというのが現実であると言って差し支えないでしょう。

 

 これくらいまで書けていましたが、文章全体の「序破急」で言えば「序破」までしか書けていません。ここまで書けたのならあとは「急」を書けば良いだけなのですが、その「急」がどう頑張っても書けなかったのは事実です。本当にお許しください。