病気を治すということ

 実はこの記事を書く1〜2週間ほど前、インフルエンザを発病し1週間近く寝込んでいた。おそらく大切な友人を救うべく奔走した結果無理が祟った結果体調を崩してしまったのだろう。幸い、まず体温を測るとか、高熱ならお医者さんに診てもらうとか、こまめにうがいをするとか、喉をマスクで守るとか、そういう「凡事」を徹底したおかげか、思ったよりも順調に快癒することができた。

 と、私自身の闘病に関する話はここまでにして、今回は「病気を治す」ということについて考えてみたい。今回の記事は「思考法」カテゴリに入れることにしたが、病気を治すというのはつまるところ意識の問題だと私は考えているからである。

 

 先程、病気を治すのは意識の問題であると述べた。では意識の問題とは一体どういうことだろうか。これについて考えてみよう。そもそも、病気を治すというのは症状に合わせて適切な処置を施し、人体に備わっている恒常性(ホメオスタシス)の維持機能により本来の健康な状態に回復させるという一連の流れのことである。つまり、病気を治すという行為の主体はあくまでも「患者自身」である。勿論、患者自身が自らの身体の不調の原因を直接知り処置するというのは極めて難しいので、大概の場合は医師の診断を受けて薬の処方などをしてもらうことになる。これが世間一般で言う「医療行為」である。そして、医療行為と呼ばれる営みは、あくまでも病気の原因を何らかの手法によって取り除くことであり、最終的な回復はあくまでも患者自身の身体に備わっている恒常性維持機能によるものであるということは間違いない。そして、医師をはじめとする医療従事者の役割というのは、本質的にはこの「患者自身の自己回復を手助けする」ということにあると考えてよいだろう。

 ここで、病気を治すというのは患者自身の意識の問題であるという論に話を戻そう。病気が治るというのは、結局のところ患者自身の自己回復能力が機能するということであり、決して「100%医療従事者のおかげ」ということではない。すなわち、病気を治すという一連の流れにおける主体はあくまでも患者自身であるということを意識する、これこそが「病気を治すというのは患者自身の意識の問題」という主張の本質である。逆に言えば、医療従事者の手を借りずとも治すことができるような軽い病気であれば、市販薬を買って自分で治すというのも立派な医療行為である。さらに言えば、医師に求められる役割というのも同様で、患者自身の自己回復能力を最大限に引き出すために適切な診断を下すことが求められる。その診断というのは、単に患者の症状に対して病名をつけ、薬を処方することだけではなく、それこそ「風邪をひいたら上気道の炎症を和らげるためにこまめにうがいをしましょう」というようなアドバイスをすることも含まれる。そして言うまでもなく、これらのアドバイスを病気の治癒のために実施するのは患者自身である。これも含めて「病気を治すというのは患者自身の意識の問題」である。

 

 さて、病気を治すというのは、結局のところ患者自身が主体的に病気を治すために適切な行動を取ることにあるということであり、そういう意味で「意識の問題」であるという結論に至った。では、患者と医療従事者の関係についてはどうだろうか。言うまでもなく、患者にとって医療従事者、特に医師は「病気を治すための保健的パートナー」であることは間違いない。だが、患者が医師を絶対的な権威であるかのように見る必要は全くない。特別な国家資格により患者の病気を診断する能力があることは担保されているとはいえ、それでも医師は一人の人間に過ぎない。そして、人体というのは機械とは比べ物にならないほど複雑な仕組みで成り立っている以上、どんな名医と言われる医師であっても「医療過誤」を完全にゼロにすることはできないと言っていいだろう。そのことをきちんと意識できていれば、医師に対して「盲信」と言っていいような過度な信頼をすることは無くなる。セカンドオピニオンという言葉があるが、これはまさに「医師も一人の人間に過ぎない」ということが前提にある言葉で、普段自分の身体を診てもらっている医師の診断が間違っているかもしれないということを踏まえて別の医師に改めて診てもらうというのは別段不思議なことでもなんでもないはずである。

 もっと言えば、病気の治癒という活動における医師の主要な役割である診断という行為は、その実「弱いAI*1」で代替可能なところも大きい。そもそも、AI(人工知能)の開発は医療行為の機械化のために進められてきたという歴史がある。そして、AIがやっていることというのは、実質的には膨大な量のデータ処理と計算を人間には到底真似できない圧倒的な速度で実行するということである。医師が病気を診断するというのは、多数の症例を根拠に目の前の症例が何であるかを判断するということなので、AIによって自動化するのは比較的容易いことである。そういう意味では、今の時代における医師という職業は「ものすごく頭の良い人がなる立派な職業」とは必ずしも言えなくなっているし、それ故に今の日本の医師が持っている「利権」に対しても批判的になるのは必然と言えるだろう。

 むしろ、今の時代における(というかどの時代においても普遍的に成り立つ)良い医師の定義というのは、患者自身の自然治癒能力を最大限に引き出す能力があることだと考えても差し支えないだろう。繰り返し言うが病気を治すという営みの主体はあくまでも患者自身である。その上で、治療というのが本質的に「凡事徹底」であることを理解した上で、最大限有効なアドバイスをするのが良い医師の条件であるはずだ。そしてその「凡事徹底」というのは、先ほども述べたような「風邪をひいたらうがい」も含めて、摘出できる腫瘍はきちんと確実に摘出するとか、高血圧の患者に対して降圧剤を処方しつつ「食事の塩分を減らしましょう」と勧告するとか、そういう「当たり前のことを当たり前にこなす」ということである。さらに言えば、そのような「当たり前のことを当たり前にやる」というのを徹底しても完全に治る見込みがないのであれば、その病と一生をかけて付き合わねばならないということを勇気をもって告げるのも重要なことである。これはその行き着く先が「死」であっても同様である。どんな名医でも死人を甦らせることはできないし、死は誰にでも等しくいつか必ず訪れるという厳然たる真理を真摯に受け止められるように促すこともまた、良い医師の条件の一つと言えるだろう。

 

 まとめると、病気を治すというのは患者自身が自らの自然治癒能力を引き出すために、自分で適切な判断を下したうえで医療従事者と協力しながら適切な治療を受けるということであり、その主体は紛れもなく患者自身にある。そして、病気を治すという営みにおける医療従事者の役割とは、患者自身の自然治癒能力を最大限に引き出せるような、そういう適切な行動をとることに他ならない。そしてまた、医療というのは決して自然の摂理を捻じ曲げられるほど万能な技術ではないし、更に言えば医療行為そのものは驚くほど平凡な行為であり、それでいて決して疎かにしていいものではないことも付言しておく。医療というのは責任をもって人の命を預かることであるから、当たり前になすべきことを一つ一つ徹底してこなすことが医療従事者全てに求められる道徳、もっといえば常識である。そして、医療従事者を過度にありがたがったり持ち上げたりせず、自分の身体は自分で治すということを常に意識することも、同じように患者に求められる当たり前の常識である。この結論をもって、今回の記事の終わりとする。

*1:人間の頭脳をほぼ完全に再現できる「強いAI」ほど高度な能力は持たないが、部分的には人間の思考能力を再現できるAIのこと。世に言うAIとして実用化されているものはこれである。