西鉄佐賀新線と福佐道路の建設を!

 佐賀県佐賀市に「億ション」ができ、売れ行きも順調という、俄かには信じがたいニュースが飛び込んできた。最上階の1億円を超える2つの居室は既に完売し、残りの部屋も最低2900万円からという、立地の良さを勘案しても周辺の相場と比較して桁違いに高級なマンションが実際に売れているという事実。その事実の背景には、福岡の目覚ましい発展に、福岡という街の地理的制約が追いつかず、やや離れた佐賀や北九州などの開発も進んでいるという事情があるようだ。

www.nikkei.com

www.hoo-sumai.com

 さて、実際に福岡市という大都市が手狭になり、佐賀にまで開発の手が伸びているという事実を踏まえるに、佐賀と福岡の行き来をより便利にする必要は十分あると思われる。実際、福岡と佐賀を行き来するにはJR特急と西鉄の高速バスが主要な選択肢として挙げられ、いずれも十分な本数が確保されているわけだが、それでもいずれ追いつかなくなる可能性は十分にあり得る。さらに、これらの移動手段はいずれも脊振山地を迂回して筑紫野・鳥栖を経由するルートをとっており、その点ではどうしても遠回りにならざるを得ないという事情もある。そこで、脊振山地を長大トンネルで貫き、福岡都心と佐賀市を短絡し、最終的には有明海沿いにある佐賀空港へと至る、鉄道と高速道路の新路線を建設することを提案したい。関西圏にお住まいの方々なら、生駒山脈を長大トンネルで突っ切り大阪と奈良の間の距離を縮めた近鉄奈良線と第二阪奈道路を想像していただければ分かりやすいだろう。なお、筆者は土木工事に関しては完全なる素人であり知識も殆ど無いので、建設費云々については考察せず、単純にルートを提案するのみに留める。

 

 福岡市と佐賀市の間にそびえる脊振山地には、現状三瀬トンネル(三瀬峠/国道263号線)と東脊振トンネル(坂本峠/国道385号線)という有料道路があるわけだが、いずれも急峻な峠道を迂回するためのトンネル部分だけが有料道路として供用されており、他の高速道路(高規格道路)には接続していない。このうち、どちらかを改良することで福岡と佐賀を短絡する高速道路として開通させることを検討したい。また、鉄道に関しては現状西九州新幹線の武雄温泉〜新鳥栖間というプロジェクトが横たわっているわけだが、佐賀県としては並行在来線問題を理由にこの整備新幹線の建設を否定的に捉えているという問題もある。ただ、この西九州新幹線佐賀県区間に関しては、一言でいえば福岡以東の直通需要のための路線であり、佐賀県民のための路線ではないというのが全てである。そこで、福岡と佐賀を短絡する新路線を、西鉄の手で開通させることを検討したい。福岡以東の直通需要を担当する新幹線はJRが運営するので、福岡と佐賀の間の通勤を主体とする移動需要を満たすために、西鉄に頑張ってもらおうということである。この2つの計画を同時進行させることを前提として、それぞれのルート選定をする必要がある。

 まず、これらの計画の前提として、脊振山地を突っ切るルートとしては、先程挙げた三瀬峠および坂本峠を通るルートのいずれかに絞られる(そして、必然的にこれら以外のルートは棄却される)ということになる。そして、高速道路と鉄道のそれぞれに関して、そのどちらかがより適切なルートであるかを考える必要がある。その結果、筆者としては鉄道と道路に関して以下のルートを提案したい。

青が鉄道、赤が道路のルート。詳細は下のリンクを参照のこと。

ku-tetsu.net

road.chi-zu.net

 以下、それぞれのルートの選定根拠を述べる。まず、鉄道については、長大トンネルを掘削することを前提になるべく急勾配の少ないルート(すなわち山岳地域をできるだけ短く済ませるルート)とする必要があることと、また(一応博多南駅が存在するものの)実質的な鉄道空白地帯となっている那珂川市に鉄道アクセスを供給することを想定して、国道385号に並行するようなルートとした。また、福岡都心から那珂川市を経由し脊振山地を突っ切った先は、吉野ヶ里町神埼市を経由しつつ、佐賀城公園の近くを通る形で佐賀市中心部に入り、そこから更に南にある佐賀空港へ線路を延ばすことにする。福岡から佐賀市までは複線で、佐賀市中心部から先は単線という想定で、西鉄福岡駅から西鉄佐賀駅佐賀空港駅まで特別料金不要の特急を走らせるというのを目標にしたい。また、特急を補完する役割を担い、また一部区間で各駅停車も補完する急行の設定も行い、各駅停車は西鉄那珂川以北で10分間隔、那珂川以南で20〜30分間隔を確保したい。

 一方、道路については、既存の高規格道路である福岡都市高速道路三瀬トンネル有料道路長崎自動車道および、事業計画中の高規格道路である有明海沿岸道路との接続を考慮したうえで、高速道路の建設に支障のないルート(多少の急勾配があっても長大トンネルを掘らずに済むルート)ということで国道263号線に沿うルートとした。福岡都心から野芥JCTまでを福岡都市高速道路西新線(7号線)とし、野芥JCTから佐賀大和ICまでを福佐道路、佐賀大和ICから佐賀空港ICまでを佐賀空港道路としたい。道路規格については、少なくとも佐賀大和ICまでは絶対に4車線とし、佐賀空港道路についても4車線とするのが望ましいだろう。(暫定2車線というチャチな規格など絶対に認めません)

 こんな感じで、ほとんどオタクの妄想みたいな路線を提案してしまったわけだが、今回の記事を書くにあたって福岡・佐賀の地形を調べていると、思った以上に脊振山地は幅が広く、また福岡平野は狭いということに気付かされた。特に、福岡平野の狭さというのはそのまま、福岡は大量の清水を得るのが難しい場所であるということとも同値である。何しろ、過去には幾度となく渇水に悩まされ、節水コマの普及や筑後大堰の建設、海水淡水化プラントの利用をしてまで、きれいな真水を得てそれを大事に使う努力を惜しまない歴史を持つ150万都市である*1。そして、それ故に佐賀や北九州の活用は福岡という世界に開かれた大都市にとって喫緊の課題であると言えるだろう。

 最後におまけとして、今回の記事のメインテーマからはやや離れるが、北九州空港への鉄道アクセス路線としてJR北九州空港線を建設することを提言したい。こちらも、北九州空港へのアクセスのみならず、北九州空港の手前にある工業団地への通勤アクセスも兼ねた路線として、以下のように整備することを検討したい。佐賀・北九州にある空港を活用することで、福岡という世界都市のさらなる飛躍を願い、これにて筆を擱くことにする。

*1:この辺りの詳しい事情は筆者も編集に携わった松明創研の同人誌「開国しなさいニッポン3〜海と自由を求めて〜」をご参照のこと。

関西コンサート会場問題とエンタメ産業の構造的矛盾(2)

※この記事は「関西コンサート会場問題とエンタメ産業の構造的矛盾(1) - スカーレットの雑記帖」の続きです。

 

 前回記事の概要:関西圏に大規模な(といっても1万5千席クラスの)アリーナが存在しないことは確かに問題であり、それに関しては既存アリーナやプロ野球の本拠地球場の再整備等も考慮しつつ整備していく必要があるが、同時に首都圏における会場の供給過多という問題も存在し、それについて考え直すべきではないだろうか。

音楽ライブの収益性についての問題

 ここまで、コンサート会場そのものについての問題を中心に述べたが、一方で音楽ライブ興行そのものの問題も同様に存在することを指摘したい。というわけで前回記事と同様に改めてコンサートプロモーターズ協会(以下ACPCと表記)による声明をもとに問題点を整理していこう。

www.acpc.or.jp

 ACPCによれば、ほぼ全ての大型エンタメコンテンツの発信・主導が東京であり、それゆえに東京圏で採算が取れる規模である1万席クラスのコンサートを東京圏以外で行うと、移動費用や運送費、宿泊費のコストの問題から採算が取れないということになるのだが、筆者はこのACPCの主張にこそ現行の国内主体の音楽ライブ興行が抱える構造的問題が潜んでいると主張したい。

 そもそも、音楽ライブ興行の採算性の問題として近年の(特に岸田政権発足後の)物価高騰が挙げられているが、この物価高騰自体は国際情勢の影響を受けた全産業的な現象であり、実際に飲食店などでは少額の値上げの積み重ねなどによってこの問題に対処している。加えて、特に関西圏では円安とインバウンドバブルにより大量の外貨が流入していることもあって、日本円の実質的な価値(1万円という額面が持つ価値)は確実に低下している。すなわち、近年の物価高騰というのは、言ってしまえば単なる通常のインフレでしかなく、それに対して興行主などが適切に対処しているかどうかというと疑問符をつけざるを得ない。

 更に付け加えると、この手の興行全般に言える問題として、客単価が安すぎるというのも存在する。具体的な例を挙げると、例えばプロ野球などでは当たり前のように行われている「個々の観客席に対して明確に値段の差をつける」ということすら行われていない興行が、特にポピュラー音楽系においては顕著に見られるという問題がある。もっと言えば、どの席が当たるか完全に運次第という理不尽な興行も多々見られ、同じ「A席」でも問題なく観覧できる席と視界に障害物があったりして満足に観覧できない席があったりする事例もあり、とてもライブ興行で収益を稼ごうという姿勢は全く見て取れないとしか言いようがない。「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」ではないが、それこそ例えば以下の画像のように演者がすぐ側を通る「花道席」で、演者と握手できるという特典までつけて売るとしたら、それこそ似たような条件の席の100倍とか500倍という価格であっても買う人は買うだろうし、実際にそういう席を設けているライブ興行も存在する。画像はバンダイナムコが抱える有力コンテンツであるアイドルマスターのものだが、このような声優主体のコンテンツでは更にキャラクター関連の物販も充実させていることが多く、それにより客単価を上げているという側面もある。この手のコンテンツに馴染みのない方にもわかりやすい例を挙げるとしたら、矢沢永吉氏のライブも同様の好例として挙げられるだろう。チケットの価格の差別化に話を戻すと、世間で問題になっている「転売ヤー」も、元を正せば「最初の公定価格が需要に対して安すぎる」のが原因であるから、それこそ(上限を定めつつ)オークション形式なども取り入れてダイナミックプライシングを行うようにすれば、転売ヤー問題を解決しつつ音楽ライブ興行の収益性の向上にも繋がるのではないのだろうか。

「花道席」の例。アニメ「アイドルマスター ミリオンライブ!」より。

 もっと言えば、地方在住者が東京での音楽ライブ興行を観覧する場合、必ず多大な交通費および宿泊費の負担が生じることを考慮しなければならない。裏を返せば、首都圏在住者は異常とも言える住居費や通勤費用を払ってまで、音楽ライブ興行に関して恵まれた環境にいると解釈することもできる。そう考えると、それこそ地方開催にかかる追加コストを賄うためにも、東京開催時に地方在住者が負担していた東京への交通費や宿泊費を考慮して多少安く治まる程度にはチケット価格を上げても良いのではないだろうか。勿論多額の費用をかけて首都圏から地方へ遠征する観覧客の存在を否定するものではないが(当然逆も含む)、音楽ライブ興行という文化を全国的なものにし続けたいのであればこの程度の試みはあってもよいだろう。

 結局のところ、ACPCの言い分は、客単価を高めて収益率を高めるという当たり前の努力を今まで怠り、巨大な内需を抱える首都圏でしか成り立たないようなビジネスモデルを続けてきたエンタメ業界そのものの問題を、関西圏(もっと言えば首都圏以外の全ての地方)のアリーナ整備の問題に責任転嫁しているように感じられてならない。言い換えると、音楽ライブ興行という、本質的に「コト消費」の要素が極めて大きい産業において、未だに「モノ消費」的なマインドでしか物事を考えられず、それ故に客単価を高めて収益性を維持することができない興行主側の問題が目立つように感じられるだろう。

 ここまで音楽ライブ興行そのものの問題について述べてきたが、ここまで述べてきたエンタメ産業が抱える構造的矛盾はまだ他にも存在する。最後はそれについてまとめて論じることにしよう。

 

国内エンタメ産業が抱えるその他の構造的問題について

海外アーティストの日本公演という観点から見ると?

 日本で公演を行う海外アーティストの視点に立つと、コンサートの開催地が東京だろうが大阪だろうが実は大差ない。世界的に人気の高いアーティストを多数抱える韓国からしてみれば、東京よりは大阪のほうが物理的にも距離が近いので大阪が抱える「施設不足」という弱点は多少カバーできるだろうし、米国のアーティストにとっては東京も大阪も距離的に大差ないというのも事実である。そして、彼らに共通して言えるのが「東京の芸能事務所・テレビ局・広告代理店の意向を汲む必要がない」という点である。すなわち、国内エンタメ産業の構造的問題の大きな要因となっているこれらの既得権を無視して事を運ぶことができるので、彼らに関西圏での公演を多数行ってもらうことを考えるのも一つの手だろう。

東京キー局頼りのビジネスという構造的欠陥について

 今の日本のコンテンツ産業は、残念ながら未だに東京キー局の強い影響下にあるのは事実であり、それ故に東京の巨大な人口(巨大な内需)ありきの「当たり障りのないもの」しか作れなくなっているという現状がある。一方で近年の大阪を中心とする関西圏にはコロナの影響を差し引いても稀に見る勢いで外国人観光客が訪れており、そんな彼らが東京を経由して広められた印象操作の影響と無関係に関西圏を高く評価しているという事実がある。さらに、東京には日本を代表するアーティストが多数集まっているが、彼らよりも優れたアーティストを多数抱えているのが韓国*1である。これらの事実を踏まえると、国内コンテンツ産業は今後の生き残りをかけて構造改革を断行する必要があるように感じられる。

外に出たがらない首都圏人

 X (Twitter)では、時折地方でのライブ開催について文句を垂れ流す首都圏人の声が多数上がってくるわけだが、地方在住者は東京でライブが開催されるたびに多額の遠征費用を負担してライブを観覧しに行くわけだし、遠征費用がチケット費用を上回ることも珍しくはなく、それ故に行きたかったけど断念することもあるという現実がある。ここまで来るともはやエンタメ産業の構造的問題から逸脱しかねないのだが、首都圏在住者は本当に「外に出たがらない」傾向が強いと筆者は感じる。これはもはやロコモティブシンドロームと言ってもいいかもしれないだろう。

 

 以上で「関西コンサート会場問題とエンタメ産業の構造的矛盾」を締めくくることにする。初回投稿からだいぶ日にちが経ってしまったが、どうかご容赦いただきたい。

*1:もっとも、韓国は現実の日本以上に激しい首都一極集中が問題になっているが、これは少なくとも日本人である筆者がどうこうできる問題ではないので深入りしない。

関西コンサート会場問題とエンタメ産業の構造的矛盾(1)

関西圏に大規模アリーナの建設を!

 先日、関西圏を中心とする都市開発クラスタの間で、衝撃的なニュースが飛び交った。発端はOsaka Metro森ノ宮新駅に併設される予定のコンサート会場の整備計画に対する見直しを求めた以下の記事である。関西圏に1万5千席クラスのアリーナを早急に整備しないと、音楽ライブの東京一極集中が加速度的に進み、音楽文化の衰退に繋がりかねないという危機感が伝わってくる。

www.acpc.or.jp

saitoshika-west.com

 さて、この記事を読むと、確かに大規模集客施設の関西圏における供給が、その需要に追いついていないことがわかる。それだけではなく、大相撲春場所が定期開催されているエディオンアリーナ大阪など、既存の施設も実はかなり老朽化が進んでいるのも事実である。つまり、新規の大規模集客施設を建設しつつ、既存の集客施設も同様にリニューアルを進めていく必要がある。既に大阪では、カジノや温浴施設、ホテル、商業施設、MICE施設などを擁する大規模IR(統合型リゾート)の誘致が内定している。それだけではなく、森ノ宮新駅もそうだが吹田市や神戸市などでも新規の集客施設の建設計画が持ち上がっている。ただでさえ、大阪は空前のインバウンドバブルに沸いているが、2025年の万博と2029年のIR開業でその流れはさらに拡大し、いずれは関西圏全体を巻き込む未曾有の一大ムーブメントになるだろう。そうなると、大阪は必然的に「国際都市」としての格をさらに高めていく流れに乗り、当然ビジネス来訪需要も増大するわけだから、観光・エンタメの面だけでなく、ビジネス面でも大規模集客施設の需要に応えるのは火急の課題である。だからこそ、1万5千席クラスの集客施設を2〜3個のみならず、欲を言えば2万席クラスの集客施設も建てたほうが良いだろう。近年の目覚ましい経済的躍進により大規模集客施設の需要が高まっている大阪・近畿圏において、その需要に供給が応えないのは、その躍進の流れにブレーキをかけることは言うまでもないだろう。

《補足》甲子園のドーム化について

 阪神甲子園球場に限らず、プロ野球の本拠地球場がプロ野球のオフシーズンにコンサートホールとして供用されることはしばしばあり、実際に5大ドーム公演なる概念が存在するくらいである。そして、それらはいずれもここまで述べた集客施設とは比べ物にならないほどのキャパシティをもつ。ここで、阪神甲子園球場について述べるが、現状は屋外球場ということもあり、プロ野球のオフシーズンである冬季のコンサート開催に関して興行主催側からしてみると非常に使いづらい会場となっている。

 そこで、筆者は阪神甲子園球場のドーム化リニューアルを提言したい。勿論、これはオフシーズンにおける音楽ライブの開催時における利便性のことだけを考えているわけではない。そもそも、プロ野球のレギュラーシーズンである春から秋にかけて雨天の日が多い我が国では、屋外球場というのは日程消化におけるネックとなっている。さらに、甲子園は春夏の高校野球全国選手権の会場としても使われるが、特に夏において炎天下で試合に臨む高校球児たちの健康管理を考えると、今の甲子園をドーム化する方が望ましいのは言うまでもないだろう。ナゴヤドームのように完全閉鎖式にするのでも、福岡ドームのように開閉屋根にするのでも、あるいは西武ドームのように既存の施設の上に屋根を被せる形でも何でも構わないので、甲子園に屋根をつけることは喫緊の課題と言えるだろう。とにかく、別の意味で制約の多い大阪ドーム*1も含めて、今の関西圏の大規模集客施設が不足しているのは事実である。

 

首都圏の既存の会場の供給過多については?

 ここまで、関西圏における大規模集客施設の供給不足についての観点から持論を展開した。しかし、これに関して言えば実は関西圏も含めた他の地方(要は首都圏以外)においても大規模集客施設の供給が不足していたり、供給はあっても交通が不便なため興行主催者がその利用を敬遠したりする例が存在する。つまりこの問題は全国的な問題であると言っても過言ではない。そして、その問題とちょうど鏡写しになるような形で、首都圏における大規模集客施設の供給過多という問題が浮上してくる。

 先ほどの出典元の情報によれば、確かに首都圏は(興行主催側からしてみれば)魅力的な大規模集客施設はたくさんあるわけだが、それでも関西圏と比較したときにどうしても「これ、多すぎない?」という疑念が湧いてくるのは事実である。首都圏の人口は関西圏の約1.5〜2倍であることと、関西圏に1万5千席クラスの施設が無いことを踏まえたとしても、明らかに供給過多である感は否めない。特にさいたまスーパーアリーナについては、最大で3万席という巨大な施設であるのだが、果たしてその席を(地方からの多額な遠征費用の負担なしに)満席にできるだけの集客力のあるコンテンツはどれほどあるだろうか?それを考えると、首都圏におけるコンサート開催の目的が、施設側の都合による(首都圏に点在する大きいハコを定期的に埋めるためにコンサートをやってもらっている)ものもあるという解釈もできるだろう。つまり、コストのかかる地方(ここでは首都圏以外を指す)での公演を避けたい興行主側の事情と、ハコを埋めてもらいたいという施設側の事情が合致していて、それ故に音楽ライブコンテンツなどの公演が首都圏に偏っているというのは否めないだろう。

 

 長くなるので一旦ここで区切ります。続きは次回の記事で。

*1:地盤が軟弱なうえにすぐ側に総合病院があるため、音楽コンサートによく見られる観衆のジャンプは禁止されている。

記事が書けなくてごめんなさい

 またも皆さんにお詫びをせねばなりません。実は、ある程度書き溜めていたブログ記事の下書きがあったのですが、最近のあまりにも慌ただしい情勢を見るに、こんな悠長な記事を書いている暇はあるのかということになり、急遽ボツにさせていただきました。本当に申し訳ございません。

 おい、お前は忙しいのを言い訳にしてブログ記事を書くのをサボってただけじゃないか。そう言われても文句はありませんね。でも、本当に今まで書いていた記事の内容に対して、現実の日本社会がそれを上回るレベルで狂っているということに気付かされていて、しかもそれが加速度的に進行しているとなったら、今まで書いてきた記事は何だったんだと考えさせられる一方です。言い訳がましくて本当に申し訳ありませんが、これが現実です。悠長に「さあ、大衆をやめよう」なんて言っている暇はないほど事態はおかしくなっている。私にはそうとしか思えません。

 

 というわけで、本来3000字くらいまで書けてから公開する予定でしたが、結局「中絶」させることになってしまった「さあ、大衆をやめよう」というブログ記事の一部をここに公開するという形で供養させていただきます。とはいえ、お腹の中の赤ちゃんを事情があったとはいえ望まぬ形で天国に送らざるをえなかった母親の悲しみは、今の私の悲しみとは比べ物にならないほど深いでしょうから、中絶という比喩は些か不適切であるということは自覚しております。

 

 大衆をやめるか人間をやめるか。結論から言ってしまえば答えは一択です。人間であるために大衆をやめましょう。とはいっても、これだけでは何のことかサッパリわからないでしょうから、そもそも「大衆」とは何か今回の記事で改めて確認しましょう。

 

そもそも「大衆」とは?

 というわけで本題に入ります。そもそも大衆なる概念はどのようにして生まれ定着したのでしょうか。大衆という単語は英語のmass(マス)の訳語として日本語に定着しています。また、その類義語として群衆という単語もありますね。別の表現で言えば「世間一般の人」というのも、集団を意味する語句こそ無いものの実質的に「大衆」とほぼ同義の表現と考えて差し支えないでしょう。一方で、民衆という単語も大衆という語の類義語として挙げられはしますが、この2つの語が持つニュアンスは微妙に、しかし決定的に違います。人民という単語もやはり大衆という単語の類義語ではありますが、先程挙げた「民衆」よりもさらに「大衆」がもつニュアンスからは逸脱する概念です。では、大衆と民衆はどう違うのでしょうか。ここに「大衆」という概念の本質があります。

 さて、大衆と民衆という一見よく似た語に決定的なニュアンスの違いがあると述べましたが、それは「世間一般の人」という別の語句がもつニュアンスが、「民衆」ではなく「大衆」のそれに近いということで概ね説明できます。いや、インターネットやSNSの発達に伴い人々の価値観が多様化した令和の時代においては、それこそ「世間一般の人」なる概念は最早存在しないか、仮に存在したとしても確実にその指し示す領域が縮小しているのは間違いないでしょう。つまり、民衆というのは単なる「数多くの一般人」ですが、大衆というのはそれに加えて「周囲に流される無定見な大多数」というニュアンスも含まれます。この「周囲に流される無定見な大多数」こそが、大衆なる概念の本質であると考えていいでしょう。そしてさらに付け加えると、先程述べた通り本来であれば「大衆」という概念自体が、民衆の価値観の多様化により既に解体されているべきものであるといっても差し支えないでしょう。しかし、現実を見る限り少なくとも日本という国ではそれが完全に実現しているとは言えません。それはどういうことでしょうか。

 

「大衆」はマスメディアによって作られた虚像である

 大衆という概念は、インターネットによる価値観の多様化により、本来であればとっくの昔に解体されていなければならないものであると述べました。しかしそれが完全に実現していないという現実が我々の目の前に鎮座しているのもまた事実です。それは偏にマスメディアが未だに大きな影響力を持っていることが大きいと言えるでしょう。そもそもマスメディアというのはmass media、すなわち「大衆」のメディアであり、マスメディアの存在こそが「大衆」という概念を作り上げたのは言うまでもありませんね。つまり大衆はマスメディアによって作られた概念であり、もっと言えばマスメディアが作った「虚像」に過ぎません。それもそのはず「大衆」ではない「民衆」はマスメディアが存在するはるか以前から存在していたもので、ちゃんと人々の生活に結びついた概念ですが、大衆なる概念は新聞・ラジオ・テレビが世に出てくるまで存在すらしなかったわけですから。

 しかしマスメディアが大衆という虚像を作って我々の生活を支配しようとしているという現実は未だに現実問題として存在しています。少なくとも今の地上波テレビや新聞、週刊誌を見ていればそのように感じるでしょう。ですが私に言わせればこれらの現実も実は今急速に崩壊へと向かいつつある、すなわち「大衆なる虚像が虚像であると認識されつつある」と断じてしまっていいと考えています。それを引き起こしたのは、抽象的な言い方をすればグローバル化という現象とそれへの「普通の」適応であると考えてしまっていいでしょう。その具体的な事例であるとか詳細は、私の以前の拙文「グローバル時代の新国家論」を読んでいただければよく分かると思いますが、要は「マスメディアによる大衆支配構造」が大阪に端を発するグローバル化への適応で崩壊しつつあるという話です。もっと言えば、その構造を更に支配している「霞ヶ関=東京による支配構造」も同じく崩壊しつつあるというのが現実であると言って差し支えないでしょう。

 

 これくらいまで書けていましたが、文章全体の「序破急」で言えば「序破」までしか書けていません。ここまで書けたのならあとは「急」を書けば良いだけなのですが、その「急」がどう頑張っても書けなかったのは事実です。本当にお許しください。

病気を治すということ

 実はこの記事を書く1〜2週間ほど前、インフルエンザを発病し1週間近く寝込んでいた。おそらく大切な友人を救うべく奔走した結果無理が祟った結果体調を崩してしまったのだろう。幸い、まず体温を測るとか、高熱ならお医者さんに診てもらうとか、こまめにうがいをするとか、喉をマスクで守るとか、そういう「凡事」を徹底したおかげか、思ったよりも順調に快癒することができた。

 と、私自身の闘病に関する話はここまでにして、今回は「病気を治す」ということについて考えてみたい。今回の記事は「思考法」カテゴリに入れることにしたが、病気を治すというのはつまるところ意識の問題だと私は考えているからである。

 

 先程、病気を治すのは意識の問題であると述べた。では意識の問題とは一体どういうことだろうか。これについて考えてみよう。そもそも、病気を治すというのは症状に合わせて適切な処置を施し、人体に備わっている恒常性(ホメオスタシス)の維持機能により本来の健康な状態に回復させるという一連の流れのことである。つまり、病気を治すという行為の主体はあくまでも「患者自身」である。勿論、患者自身が自らの身体の不調の原因を直接知り処置するというのは極めて難しいので、大概の場合は医師の診断を受けて薬の処方などをしてもらうことになる。これが世間一般で言う「医療行為」である。そして、医療行為と呼ばれる営みは、あくまでも病気の原因を何らかの手法によって取り除くことであり、最終的な回復はあくまでも患者自身の身体に備わっている恒常性維持機能によるものであるということは間違いない。そして、医師をはじめとする医療従事者の役割というのは、本質的にはこの「患者自身の自己回復を手助けする」ということにあると考えてよいだろう。

 ここで、病気を治すというのは患者自身の意識の問題であるという論に話を戻そう。病気が治るというのは、結局のところ患者自身の自己回復能力が機能するということであり、決して「100%医療従事者のおかげ」ということではない。すなわち、病気を治すという一連の流れにおける主体はあくまでも患者自身であるということを意識する、これこそが「病気を治すというのは患者自身の意識の問題」という主張の本質である。逆に言えば、医療従事者の手を借りずとも治すことができるような軽い病気であれば、市販薬を買って自分で治すというのも立派な医療行為である。さらに言えば、医師に求められる役割というのも同様で、患者自身の自己回復能力を最大限に引き出すために適切な診断を下すことが求められる。その診断というのは、単に患者の症状に対して病名をつけ、薬を処方することだけではなく、それこそ「風邪をひいたら上気道の炎症を和らげるためにこまめにうがいをしましょう」というようなアドバイスをすることも含まれる。そして言うまでもなく、これらのアドバイスを病気の治癒のために実施するのは患者自身である。これも含めて「病気を治すというのは患者自身の意識の問題」である。

 

 さて、病気を治すというのは、結局のところ患者自身が主体的に病気を治すために適切な行動を取ることにあるということであり、そういう意味で「意識の問題」であるという結論に至った。では、患者と医療従事者の関係についてはどうだろうか。言うまでもなく、患者にとって医療従事者、特に医師は「病気を治すための保健的パートナー」であることは間違いない。だが、患者が医師を絶対的な権威であるかのように見る必要は全くない。特別な国家資格により患者の病気を診断する能力があることは担保されているとはいえ、それでも医師は一人の人間に過ぎない。そして、人体というのは機械とは比べ物にならないほど複雑な仕組みで成り立っている以上、どんな名医と言われる医師であっても「医療過誤」を完全にゼロにすることはできないと言っていいだろう。そのことをきちんと意識できていれば、医師に対して「盲信」と言っていいような過度な信頼をすることは無くなる。セカンドオピニオンという言葉があるが、これはまさに「医師も一人の人間に過ぎない」ということが前提にある言葉で、普段自分の身体を診てもらっている医師の診断が間違っているかもしれないということを踏まえて別の医師に改めて診てもらうというのは別段不思議なことでもなんでもないはずである。

 もっと言えば、病気の治癒という活動における医師の主要な役割である診断という行為は、その実「弱いAI*1」で代替可能なところも大きい。そもそも、AI(人工知能)の開発は医療行為の機械化のために進められてきたという歴史がある。そして、AIがやっていることというのは、実質的には膨大な量のデータ処理と計算を人間には到底真似できない圧倒的な速度で実行するということである。医師が病気を診断するというのは、多数の症例を根拠に目の前の症例が何であるかを判断するということなので、AIによって自動化するのは比較的容易いことである。そういう意味では、今の時代における医師という職業は「ものすごく頭の良い人がなる立派な職業」とは必ずしも言えなくなっているし、それ故に今の日本の医師が持っている「利権」に対しても批判的になるのは必然と言えるだろう。

 むしろ、今の時代における(というかどの時代においても普遍的に成り立つ)良い医師の定義というのは、患者自身の自然治癒能力を最大限に引き出す能力があることだと考えても差し支えないだろう。繰り返し言うが病気を治すという営みの主体はあくまでも患者自身である。その上で、治療というのが本質的に「凡事徹底」であることを理解した上で、最大限有効なアドバイスをするのが良い医師の条件であるはずだ。そしてその「凡事徹底」というのは、先ほども述べたような「風邪をひいたらうがい」も含めて、摘出できる腫瘍はきちんと確実に摘出するとか、高血圧の患者に対して降圧剤を処方しつつ「食事の塩分を減らしましょう」と勧告するとか、そういう「当たり前のことを当たり前にこなす」ということである。さらに言えば、そのような「当たり前のことを当たり前にやる」というのを徹底しても完全に治る見込みがないのであれば、その病と一生をかけて付き合わねばならないということを勇気をもって告げるのも重要なことである。これはその行き着く先が「死」であっても同様である。どんな名医でも死人を甦らせることはできないし、死は誰にでも等しくいつか必ず訪れるという厳然たる真理を真摯に受け止められるように促すこともまた、良い医師の条件の一つと言えるだろう。

 

 まとめると、病気を治すというのは患者自身が自らの自然治癒能力を引き出すために、自分で適切な判断を下したうえで医療従事者と協力しながら適切な治療を受けるということであり、その主体は紛れもなく患者自身にある。そして、病気を治すという営みにおける医療従事者の役割とは、患者自身の自然治癒能力を最大限に引き出せるような、そういう適切な行動をとることに他ならない。そしてまた、医療というのは決して自然の摂理を捻じ曲げられるほど万能な技術ではないし、更に言えば医療行為そのものは驚くほど平凡な行為であり、それでいて決して疎かにしていいものではないことも付言しておく。医療というのは責任をもって人の命を預かることであるから、当たり前になすべきことを一つ一つ徹底してこなすことが医療従事者全てに求められる道徳、もっといえば常識である。そして、医療従事者を過度にありがたがったり持ち上げたりせず、自分の身体は自分で治すということを常に意識することも、同じように患者に求められる当たり前の常識である。この結論をもって、今回の記事の終わりとする。

*1:人間の頭脳をほぼ完全に再現できる「強いAI」ほど高度な能力は持たないが、部分的には人間の思考能力を再現できるAIのこと。世に言うAIとして実用化されているものはこれである。

グローバル時代の新国家論(4)〜国家はどうあるべきか?

国家は邪魔者である、でも今すぐには無くせない

 既に何度も述べたことだが、グローバル時代における経済の主役は「都市」であり、都市どうしの競争がグローバル経済を活性化することは言うまでもない。そして、国家(中央政府)の介入がそれらに冷や水を浴びせることは、往々にしてよくあることである。となると、国家という存在がグローバル化という流れにおいて障壁となるのは自明のことだろう。現に、グローバル化という現象を端的に表現する言葉として「国境の壁が低くなり、消えつつある」というのがあるくらいで、グローバル化の先進地域であるヨーロッパ諸国では既にパスポート無しで隣国に行くのが当たり前になりつつある。勿論日本でも、少なくとも同じ西側諸国である韓国や台湾とは同じように国境をより低くして自由な往来ができるようにすべきなのかもしれないが、それが一筋縄ではいかないことは私自身も承知している。西ヨーロッパ諸国で国境を自由に往来できるのは周りが全部同じ西側の自由主義という価値観を共有する国々であるからであって、すぐ隣に権威主義全体主義国家が控えている日本ではそうは行かないのは自明だろう。

 これを別の表現で置き換えると、今のグローバル時代における、自由主義国家の役割として第一に求められるのは、グローバル化を拒絶し権威主義にしがみつく「国家」に対する防壁としての役割であるということになるだろう。そして、その防壁としての役割は、世界中が全てグローバル化という「自然現象」を当たり前のものとして受け入れるようになるまでは必要とされるということも言えるだろう。身も蓋もない話だが、ジョン・レノンの「イマジン」のような国境の無い世界というのは、それを世界中の人が望んで、なおかつ実際に行動してその前提条件を満たすこと(=グローバル化を拒絶するあらゆる権威主義体制が否定されること)で初めて成り立つ、そういう「遠大な目標」のようなものである。

 

日本という「統一国家」の今後は

 とはいえ、日本は曲がりなりにも西側自由主義陣営の一国である以上、大なり小なりグローバル化の影響を受け入れているし、実際に外国からの移民も少しずつ増えてきているのは間違いない。そして、インターネットという文明の利器によって、開かれたインターネットを介して繋がっている諸国との交流も存在する以上、日本という国を取り巻く「国境」は、グローバル化以前に比べれば確実に低くなっていると言ってよい。そして、そんな現実を目の前にすれば、日本国の中央政府の存在が大阪や東京、名古屋、福岡といった大都市を基盤とする自由経済にとって障碍となっているのは紛れもない事実である。その具体例に関しては、掘り返せば幾らでも出てくるのでここでは敢えて述べないが、いずれにせよ中央集権的な今の日本政府の存在がグローバル経済活動において、時流に乗る妨げになっているのは間違いないだろう。

 しかし、我が国における問題はこれだけではない。勿論鈍重な中央政府の存在だけでも十分大きな問題ではあるが、それに輪をかけて問題になっているのが、以前の記事でも述べたように、東京に基盤を置く中央政府が東京に偏頗した予算配分を行ったり、東京のマスメディアが東京だけが一方的に繁栄するような歪んだ印象操作を行なっているという問題である。これはすなわち、東京という権威主義的な巨大都市が大阪など他の大都市の自由な経済成長の芽を摘んでいると言い換えることもできる。つまり、東京という「反グローバル的な」存在が我が国を本当の意味のグローバル的・自由主義的な国から遠ざけているという、そういう構図になる。そして、そういう状態が続くということは、今まで続いてきた日本という統一国家の根底を揺るがしかねないような内部分裂を招きかねないということであり、その点に関して私は警鐘を鳴らす必要があると考えている。これは単に日本全土が一つの政府によって均一に支配されることがなくなるのを危惧しているのではない。日本中のどこでも一定の高いレベルの文明が維持される保証が無くなることを危惧しているのである。つまり、大都会と田舎で、ロンドンとアフガニスタンの辺境くらいの文明格差が生じることは普通にあり得るということである。

 

文化的統合の象徴としての「日本」へ

 では、このような最悪の事態を防ぐために、日本という「国家」ができることは何があるだろうか?

 先程述べたことは、謂わば「日本国の崩壊」というハードランディングの成れの果てとして想定される未来である。勿論、これは日本国の中央政府無為無策が行き着いた成れの果てであり、各地の地方政府の存在を完全に無視した暴論であることは先に断っておかねばならない。ここで地方政府の存在に目を向けると、各地の地方政府が、機能不全に陥った中央政府の役割の一部を、限定的とはいえ代行することは十分考えられる。そして、その中から有力な地方政府の一部が中央の支配を実質的に離れて「地方政権」として振る舞うことは容易に想像できるだろう。実際、現実の日本史においても、中央政権としての室町幕府応仁の乱を発端とする諸々の戦乱で事実上機能しなくなった時代において、実際に民衆を統治していたのは有力な地方政権たる戦国大名であった。そして、そのような群雄割拠の時代は、やがて時代の風雲児たる織田信長の出現により終わりを迎えることになった。そして、この時代においても、信長は当時の首都である京(京都)にいた天皇への拝謁を目標とし、それにより天下を統一することを目指していた。

 つまり、この室町時代末期という時代の混乱期においても、結局は天皇という「権力なき権威」、別の言い方をすれば「君臨すれども統治せず」の象徴的君主の存在が国家の統一の根拠として機能していたということになる。勿論この時代には「象徴天皇制」を明記した憲法など存在しない。そして、それは「象徴天皇制」をその筆頭たる第1条に掲げる日本国憲法が存在する令和の今においてもおそらく変わっていないはずだ。平成から令和への代替わりという、皇室・天皇と密接に結びついた大イベントが、国民総出で盛大に祝われたという事実を前にすれば、私がこれ以上深く語る必要はないだろう。いずれにせよ、ともすれば容易に瓦解しかねない我が国を緩やかに、しかししっかりと結びつけているのが「国家と国民の統合の象徴」としての天皇・皇室であることは間違いないだろう。そして、今後のグローバル化時代において、日本という国家に求められる役割もおそらくはそれと同様のものになってくると私は考えている。

 考えてみれば、日本の歴史において、天皇の役割は実権を持つ統治者から国民統合の象徴へと、一貫して立憲君主制へと向かう流れに逆らわずに変わってきた。勿論、明治維新から太平洋戦争敗戦に至るまでの約80年のような「例外」もあるのだが、その時代においてさえ天皇は一貫して立憲君主であることを期待され、実際にそう振る舞っていた(そうでなければ天皇親政を求めて武装蜂起した二・二六事件青年将校を鎮圧したりしないだろう)。同様の例を他に挙げるなら、米国という国においても、連邦政府や大統領の存在は、政治の実権のみならず米国国民としての共通の価値観を象徴するものとして、実体以上の存在感を放っている。非常に古い歴史を持つ君主国である我が国日本と、日本に比べれば随分歴史の浅い共和制国家の米国を単純比較することはできないが、いずれにせよ国家には「国民統合の文化的象徴」という存在意義があるように思えてならない。そして、国家の「国民統合の文化的象徴」としての役割は、グローバル化の進行により世界経済の主役が「国家」から「都市」へと移行している現代においてはますます重要性が高くなることだろう。また別の言い方をすれば、国家が「文化的に国中を緩くまとめ上げる」ことができるかどうかが、国全体の文明レベルの維持・向上に大きな役割を果たすとも言えそうだ。今後の日本国には、そのような役割を第一に果たすことを期待したいと結論付けて、このシリーズを終えることにする。

大場より急場、そして凡事徹底

 まず読者の皆さんにお詫びです。本来はこのタイミングで公開する予定だった「グローバル時代の新国家論(4)」ですが、もう一回だけ延長させてください。いや、いつ書けるようになるかもわからないんで、しばらく「休載」することにします。何かもう、ホンマにすみません。私だって、自信を持って始めた連載記事なんですから、責任を持って次で完結させる予定でした。でも、今の私にそれを書いている暇は残念ながらありません。なんで、ホンマにもうちょっとだけ辛抱してください。

 

 と、言い訳ノーガキはここまでにして、今回予定を曲げてまでこの記事を書くに至った経緯を軽く説明しておきます。

 まず、事は昨年12月半ば頃に遡ります。ちょうど私が当ブログを復活させて暫く経った後です。私の友人にして恩人の一人(便宜上🐻さんとします)が、持病のリューマチがある上で、マイコプラズマ肺炎になって38度の高熱を2度も出してしまい、危うく死にかけたという事態が発生しました。しかも、🐻さんは私たちと共同プロジェクトで進めていた年末のコミケの現場責任者でしたが、容体が悪化しコミケ参加すら危ぶまれる事態となりました。なお、別の友人に協力してもらうことで、コミケという難局は何とか切り抜けることができました。

 幸い、🐻さんは一命を取り留めたのですが、その後の🐻さんからの治療報告を聞いた私と私の友人たちは、あまりの悍ましさに返す言葉が無くなるほどでした。🐻さんは神奈川県のとある地方都市に住んでいるのですが、🐻さんのかかりつけ医であるそこの開業医やその町の基幹病院での対応のお粗末さゆえに、本来重病ゆえに入院されて然るべき🐻さんが自宅で経過観察という名の放置をさせられたこととか、県都横浜の大病院の医師へのカルテの引き継ぎがあまりにものそっとしていて危機感が微塵も感じられなかったこととか、とにかく医療に関するありとあらゆる腐敗を目の当たりにさせられました。そういうこともあって、私たちは最終的に持病持ちでいつ病を得てもおかしくない🐻さんを、神奈川県の腐敗した医療環境から遠ざけるために、関西圏へ移住させようということで合意し、そのためにできることをひたすらやっているというのが現状です。

 

 というわけで本題に入ります。今回の記事のタイトルの1つ目のキーワード「大場より急場」は、元々は囲碁の格言であり、その意味は「大きな陣地を確保することも重要だが、それよりも今起こっている、石の生き死にに直結するようなせめぎ合いの方が優先順位は高い」ということです。これを今の私に当てはめると、「グローバル時代の新国家論」やその後に書く予定の別の評論記事は「大場」です。一方で、今回の🐻さんを巡る一連のあれこれこそが、今の私にとっての「急場」です。文字通り人の命、それもお互いにとってとても大事な人の命がかかっている状況ですから、急場と言わずして何と言いましょうか。もちろん🐻さんを助けることが自分自身の利益になるというのは否定しませんが、それ以上にこれは恩を感じている者には報いねばならぬという信義則に基づいての行動です。だから、私は他にやることがあったとしても、🐻さんを助けるというのを優先しているわけです。これが「大場より急場」ということです。

 そして、この「急場の中の急場」とも言える、🐻さんを瀕死の状態に追い込んだ神奈川県の医療の腐敗問題についてですが、これは一言でいうと、まさに今回の記事タイトルの2つ目のキーワードである「凡事徹底」が全くできていないということになります。カルテの引き継ぎとかそういうレベルの「凡事」すらまともにこなせないような医療体制で、どうやって人の命を救えるでしょうか。特に医療というのは、基本的には「熱が出たらまず体温を測る」とか「風邪をひいたらうがいする」というような「凡事」を徹底することで、重症化を防ぐというのが基本であるはずですし、同時に肺炎で38度の高熱が出たという「急場」に対しては、それこそ迅速に病院で診察させて入院させるというような適切な処置を取らないと、助かる命も助からないということになりかねませんね。逆に言うと、かかりつけ医から基幹病院にカルテを引き継ぐというような「凡事」すらまともにこなせないような医者に、大手術だとか複雑な治療だとかはできるわけがありません。医療というのはそういう意味ではものすごくシステム工学的なものですが、扱うのが人体という複雑系であり、そして人命という責任を背負っているわけですから、医療者というのはとにかく自らの仕事の一つ一つに真摯に向き合うのが当然でしょう。

 そしてこの「大場より急場」と「凡事徹底」は、何も医療だけに当てはまることではありません。それこそ現実の戦争だとか、企業経営だとか、あるいは政治だとか、おおよそ戦略が求められる全ての局面において重要であると言えるでしょう。具体的な詳細はまた別途個々の記事で書くこととして、これらの重要性は、まさに「平民の良識」というレベルで身についていて当たり前のことだと思うのです。そして、それができていない個人は間違いなく愚行を犯していますし、それができていない組織は確実に腐敗しています。身も蓋もない話ですが、そういうものです。

 

 幸い、🐻さんを巡る諸々に関しては、とりあえず協力できるあらゆる人脈を活用しつつ、🐻さん本人にも今の状況を的確に認識してもらったうえで今の神奈川県の医療組織に対して疑義を呈するという決断に至ったので、私自身としては一旦そこまで深くコミットする必要はなくなりました。というわけで、今回の記事はこれで終わりとし、近いうちに「グローバル時代の新国家論」の最終節にあたる(4)を完成させて公開します。