グローバル時代の新国家論(0)〜グローバル化という現象の本質

グローバル化とは「現象」である

 世間では未だに「反グローバリズム」などと称して国境を閉ざし人や物の自由な往来を規制しようとする勢力が表向きの左右を問わず存在する。だがそんな主張は端的に言ってしまえば相手にする価値もない愚論に過ぎない。そもそも、グローバル化という世界的な流れは、グローバリズムなるイデオロギーによって成り立っているのではなく、交易というごく自然な人間の営みの延長線上にある現象に過ぎない。

 そもそも、人類の歴史というのは一貫して交易により異なる文明圏どうしが交わりあうようにして発展してきたものである。歴史を振り返ってみても、シルクロードから大航海時代、そして産業革命と資本主義に至るまで、すべて「交易」や「商売」ありきで成り立っているわけで、それらが存在しなかったら今の世界はこれほど便利にはなっていなかっただろう。そして、現代の世界で起きているグローバル化もまたこの文脈の上に成り立っている。インターネットという文明の利器を通じて世界中の情報が統合され、その結果世界中のモノやコトに用意にアクセスできるようになったこの現代において、世界中が一つの「市場」として今までにないレベルで活発に商業活動や情報発信が行われるようになったというのがグローバル化という流れの本質であり、その恩恵は世界中のあらゆる人々が受けている。(もちろんインターネットに接続できる機器があればの話だが。とはいえ、今や後発開発途上国だろうがネットに繋がるスマホは普及しているので、本当にごく一部の国を除いて情報格差は無くなりつつある。)

 ここで、グローバル化という一連の世界的な流れに、何らかの「思想」が特にあるわけではないことは明らかだろう。世界中を一つの統一された価値観に染め上げるなんていう(陰謀論じみた)発想なんてものは存在せず(あるというのなら証拠を挙げてみればよい。きっと無理だろうけど)、それどころか世界中にある多種多様な価値観の違いがより鮮明になって現れてきているのが現実である。話を戻すと、グローバル化という流れを支配しているのは、インターネットという便利なツールを使って生活をより便利にしようという、ただそれだけのごく自然な発想であり、そこに何らかの思想やイデオロギーは存在しない。そういう意味で、グローバル化というのは単なる現象に過ぎないのである。

 

インターネットが冷戦を終わらせた

 さて、現代のようにグローバル化が進む前の時代に遡ろう。とは言っても、100年前とかそれ以上昔に戻るわけではない。せいぜい40年くらい前、東西冷戦の末期に戻るだけである。

 1982年、現在のインターネットの共通プロトコルとして利用されているTCP/IPが標準化され、当時世界中に存在していたコンピュータネットワークを一つに統合するインターネットという概念がアメリカで提唱された。当時はまだ冷戦が続いており、アメリカを中心とする西側世界とソ連を中心とする東側世界の物的・人的交流は殆ど存在しなかった。そんな当時においても、アメリカは軍用のコンピュータネットワークを活用していたが、アメリカ軍は「情報の分散」を目的としてこのネットワークを構築していた。現在世界中で利用されているインターネットは、有り体に言えばすべてこの米軍のコンピュータネットワークの「お下がり」である。そして、その本質は情報処理を一つの巨大な汎用機(メインフレーム)に集中させるのではなく、いくつものコンピュータに分散させることで、たとえ一つのコンピュータで異常事態が発生しても、他のコンピュータで処理を行うことにより全体的な被害を最小限に食い止めることにある。

 この「分散」こそがインターネットの本質であり、これから述べるグローバル化の本質でもある。そして、これこそがアメリカが冷戦を制し、ソ連が崩壊した本質的な理由である。多極分散の反対は一極集中・中央集権なのだが、この構造は権力が集中している「中央」がダメになると一気にシステム全体がおじゃんになってしまう。そういう意味では非常に脆弱な構造である。そして、ソ連はこの中央集権的なシステムからついに脱却できないまま、権力中枢の腐敗が進み、やがてアメリカに敗れ崩壊することになる。その後、西側と東側という2つの世界を隔てる壁はやがて消え、かつて分断されていた2つの世界は緩やかに、しかし確実に統合されていった。この一連の流れが冷戦終結という世界史におけるビッグイベントの要諦である。

 

グローバル化とは分権化である

 ここまで、多極分散型のシステムであるインターネットが世界の情報通信に画期を齎し、また一方で権威主義自由主義に対する敗北を決定づけたという流れを掻い摘んで説明したが、世界を一繋がりにするというグローバル化という現象の根っこにあるのが、インターネットという多極分散型の構造であるのはある意味逆説的に感じられるかもしれない。しかし、これは何ら不自然なことではない。

 そもそも、中央集権という構造は、必然的に権威主義を志向し、その一方で分権型組織は自然と自由主義的な様態を示す。そして、権威主義的な社会においては、自然と組織の内と外の間に「壁」ができるようになり、「部外者」は内に取り込んで服従させるか、それとも殲滅させるかという選択になりがちである。一方、自由主義的な社会においては、基本的に「自分は自分、他人は他人」というスタンスになるので、自分の利益のために相手も利するというウィンウィンの関係を目指し、その結果異なる者同士がそれぞれの個性を維持しつつ緩やかに繋がるようになる。

 これこそが、分権型構造こそがグローバル化を推し進め、グローバル化こそが長期的・大局的に見て人類社会をより豊かにするという主張の根幹である。別の言い方をすれば、中央集権や権威主義は持続可能性に乏しく長期的に見て破滅を招くが、分権社会や自由主義は持続可能性があり長期的な発展につながるということである。

 

国家から都市へ

 先ほど、グローバル化によって価値観が画一化されることはなく、寧ろ異なる価値観同士の違いが浮き彫りになり、それぞれが独自の存在感を持つようになると述べた。その流れの最も象徴的なものが、主要先進国における地域主権・地域主義の伸展であり、覇権主義国家主義への反発であるのは言うまでもない。その具体例としては、それこそスコットランド(アルバ)やカタルーニャ(カタラン)の独立・自治運動であるとか、ロシアの覇権主義に毅然と戦うウクライナ中国共産党政府に対して民主化運動を続ける香港民主派が代表的であるが、これ以外にもいくらでも具体例はある。そして、それらの流れに共通しているのが、有力な経済都市の存在(グラスゴーバルセロナ・オデーサ・香港)である。

 すなわち、表面的には「地域主権」や「反権威主義」という形で現れているこれらの流れには、都市による経済的自立という背景があるといっていい。ここで大事なのは、これは「国家」ではなく「都市」が主体であるということで、それこそまさに「国家から都市へ」という流れそのものである。

 これは逆の側から見てもそうで、ロシアや中国といった権威主義国家が民主主義勢力を弾圧する構図の背後には常に「国家権力」が存在する。そして、表向きは自由主義である国においても、国家権力が新しいビジネスに対して既得権益保護のために規制という国家権力を用いて妨害するという構図においてもそれは本質的に同じである。

 つまり、グローバル化というのは、敢えて政治的な見方をすれば、国家権力の力の減退と自立した都市経済圏の力の拡大と解釈することもできる。ここで、都市というのは何も都市圏人口が300万を超えるような大都市に限った話ではない。極論すれば、都市圏人口が50万人あるかどうかの小さな都市圏であっても、独立した経済圏を築くことは十分可能である。もちろん、人口が1万人あるかどうかの小さな町が独立した経済圏を築くのは難しいだろうが、それでも周辺にある都市の一部となることでその都市を中心とする独立した経済圏の一部になることは可能である。何れにせよ、グローバル化という世界規模の流れにおいて、自立した経済圏を持つ都市が重要性を高めつつあるのは言うまでもないことである。

 今回はここまでとする。次回からは、この「分権化」と「国家から都市へ」という2つの流れをテーマに、今後我が国日本を含めた国家はどうあるべきかということについてじっくり考えたい。