「無敵の人」を生まないために

 無敵の人という概念は、元はネット掲示板由来の俗語に過ぎなかったのに、今や世間に名の通った社会学者までもが使うようになった。ありとあらゆる社会的資本や機会から疎外され、守るべきものも失って困るものも無い、そういう「弱者中の弱者」が社会に絶望して社会を震撼させるような凶悪犯罪を起こすという類型の犯罪者が「無敵の人」と定義づけられ、そのような犯罪を未然に防ぐためとして様々な主張が飛び交っているのが現状である。

 その中でも「生活保護などのセーフティーネットを拡充すべき」というのは比較的よく聞く意見である。ただ、この意見はどうも説得力として弱い。無差別殺人事件を起こすような「無敵の人」が、生活保護を受けられていたところで果たしてそのような犯罪に走らずに済むと言い切れるだろうか?確かに個人の力ではどうにもならない原因による生活の困窮をセーフティーネットで救済するのは必要だが、今起きている「無敵の人」という問題を解決するための根本的な答えではないように思う。

 この「無敵の人」問題については、他にも様々な意見が存在しているが、私に言わせればどれもピントの合っていない主張でしかない。西村博之ひろゆき)は「キモくて金のないおっさん*1にウサギを配れ」と主張していたが、あれこそまさに浮ついた出鱈目の極みである。私がこれから言いたいのは、そんな生温い話ではなく、もっと本質的な、それこそ切って血の出るような話である。

 

 「無敵の人」が残忍な蛮行に走る理由の多くは「この社会そのものに対する絶望と復讐」に他ならない。そして、そのような負のエネルギーの根源にあるのは「自尊心の完全なる欠如」であると断言できる。これはかつて何度も「無敵の人」になりかけた私だからこそ、我が身をもって断言できる主張である。前回の記事でも述べたが、「無敵の人」を生み出すのは強烈かつ執拗な自己否定の経験である。毒親をはじめとする他者による自己否定とは自尊心の破壊である。別の言い方をすれば自らのレゾンデートル(raison d'être)*2の否定であり、自らの精神の核の破壊であると言える。

 そういう意味でも、自己否定の洗脳をのべつ幕無しに続けるというのはあらゆる人道に悖る蛮行であり、そのような度し難い蛮行により自我が破壊されるということは、自らが誇り高く生きるということが事実上不可能になるということであり、そのような最悪の状態からの回復は並大抵のことではない。それゆえ、自己否定による絶望から二度と回復することなく、その結果生み出される負のエネルギーが増大し、破壊衝動と向かうことは非常に多い。破滅へ向かうエネルギーが自らに向くというのは、自傷オーバードーズだとか自死であるが、その負のエネルギーが他者に向くのが、それこそ無差別通り魔事件だとか、有形無形のテロリズムである。この自己否定による自尊心の喪失が引き起こす、他者に向けた破壊エネルギーの発動こそが、世にいう「無敵の人」による事件の本質である。

 つまり「無敵の人」の正体とは、自らが誇り高く生きるという、人間として当たり前のことができなくなり、全てに絶望した成れの果てである。かつて一世を風靡したアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の表現を借りれば「魔法少女ソウルジェムが濁り切って魔女化する*3」というのとほぼ同じである。勿論生活苦などが絶望を加速させることはあるだろうが、それでも本質的に人を絶望へと駆り立てるのは「自己否定」であり「自尊心の破壊」である。そして、破壊された自尊心が回復するのには相当な時間と精神的ケアが必要である。これは、毒親と物理的に距離を置いてもなお、絶望ゆえに「無敵の人」を正当化するような発想に走ったり、自死未遂を起こしたりしている、私自身の切って血の出るような生々しい経験から導き出された私なりの結論である。これに関して、私としては未だ完全に回復しているとは言えないが、それでも「昨日よりは良くなっている」と言えるように、日々精進して生きている。それが、過去に私自身の負のエネルギーを発散してしまい迷惑をかけた友人たちに対する、せめてもの私なりの贖罪である。

 

 ここまで、自己否定と自尊心の破壊による絶望こそが「無敵の人」という怪物を生み出すと述べた。それではどうすれば「無敵の人」が生まれないようにできるだろうか。それは「すべての人が誇り高く生きられるようにする」ということだと私は考える。非常に抽象的で哲学的な主張だと思うが、何のことはない、自尊心の否定による絶望から「無敵の人」が生まれるわけだから、その逆を行けばよいだけである。そのための具体的な諸々については、また別途述べることにして、今はこの「すべての人が誇り高く生きられるようにする」ということそのものだけを考えたい。

 すべての人が誇り高く生きられるようにする。言うだけなら簡単だが、実際にそれを実現するとなると非常に難しい。何しろ、今の日本社会においては、この「誇り高く生きる」という、人として当たり前の権利が蔑ろにされているような場面があまりにも多いからである。具体的なそれについて列挙するのは、今は割愛するとして、これらに共通していることとしては、歪んだイデオロギーによる精神的支配があることを指摘したい。とにかく「○○という属性であるならば□□であるべきだ」という、しょうもない固定観念があまりにも多すぎて、人間として当たり前に存在する個性を束縛している。このような現実を変えないことには、「無敵の人」はいずれまた違う形で出現して、我々の生きる社会に災厄を齎すだろう。嘗て日本中を震撼させた、新興宗教の皮を被ったテロリズム集団であるオウム真理教の犯罪者も、ある意味では生きづらさを拗らせた「無敵の人」の成れの果てであろう。それと同じようなことが繰り返されるのは、平和に生きていたい一市民としてはまっぴらごめんである。

 話を戻そう。すべての人が誇り高く生きられるということはどういうことか。それは「誰もがありのままの自分自身を肯定し、健全な自尊心を持ち、日々を一生懸命生きていける」ということである。それこそ、世界を代表する米国のポップ・スターであるレディー・ガガの"Born This Way"(私はそう生まれてきたのだ)という歌のメッセージそのものである。ガガは思春期に壮絶ないじめの経験を受けたが、それを跳ね除けて世界中を魅了するポップ・スター(アイドル)となった。彼女はその歌の中で「肌の色も、性的指向も、何も関係なく、神様はみんなを完璧に造ってくださった。だから自分は自分らしく生きよう」と歌い上げている。人は誰であれ、この歌の通り、生まれながらにして誇り高く生きる権利がある。今の日本に足りないのはこの精神ではないだろうか?別の例を挙げると、明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」という言葉もある。元々は1985年8月12日の日航ジャンボ機墜落事故で、本来乗る予定だった事故機に乗らずに済み、命拾いをした彼の一言である*4。だが、ここではそれ以上に、誰であれいきいきと己の人生を生きているというその事実だけでも既に十分誇らしいという意味で捉えたい。自死を思い止まらせ、前向きな生へ一歩踏み出す言葉として、これ以上の言葉は他に無いだろう。

 人が生まれながらにして当たり前に持っている自尊心を何よりも尊重する。たったそれだけのことが、我々の生きるこの社会には何よりも重要であるという結論で本記事を締めくくることにして、最後に世界人権宣言の第一条を引用しよう。

すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

 

 

*1:少し前まではKKOと略して呼ぶことも多かったが、最近ではより広い概念として「弱者男性」に取って代わられつつある。

*2:存在意義。

*3:魔法少女の魂そのものであるソウルジェムは、絶望などの負の感情によって濁り、それが限界まで達したときにソウルジェムがグリーフシードとなって魔法少女は魔女へと変貌する。

*4:ちなみに、彼の娘であるIMALUの名前の由来でもある。