グローバル時代の新国家論(1)〜中央集権と権威主義の終わり

中央集権はもはや用済みである

 前回の記事において、グローバル化とは分権化であると述べた。より詳しく言うと、グローバル化時代というのは自立した経済圏を持つ都市が主役となる時代であり、それまで国家が持っていた権力が都市(地方)に移譲されるという流れが支配的になる時代であるということである。すなわち、中央集権というあり方はもはや控えめに言っても用済みであるということになる。いや、用済みという表現ですら生温いかもしれない。もっと過激な表現をすれば「グローバル化の敵」と言っていいだろう。

 そもそも、中央集権というあり方は、一言でいえば「戦争」のために作られた制度であると言っていい。中央集権の利点というのは、端的に言えば頂点から末端に至るまで上意下達の指揮体系が確立されることであるが、これはまさに戦争においてこそ役に立つ構造である。だが、戦争というのは結局のところ、どんなによく見積もっても「ゼロサムゲーム」にしかならず、むしろマイナスサムになることすら珍しくない。そして、いずれにせよグローバル化という流れの主体となる「交易」は戦争のそういう性質とは無縁なところにある。交易は基本的にウィンウィンのプラスサムゲームであって、決して奪うか奪われるかというゼロサムゲームではない。そして、交易というのは本質的には中央集権とは相性が悪い。

 まとめると、中央集権という制度は戦争ありきでつくられたものであり、今後のグローバル化の時代における交易に基づく互恵関係を前提としていないということになる。言い換えれば、中央集権制はグローバル化という現象を支配する価値観とは根本的に相容れないということになる。

 

中央集権は権威主義である

 更に言うと、中央集権的なあり方は、そのまま権威主義的なあり方に容易に転ずる。もっと言えば、中央集権と権威主義は表裏一体である。これらは何ら不自然なことではない。そもそも、中央という一箇所に権力が集中するということは、必然的に絶対的な権力勾配が生まれ、それがそのまま絶対的な権威勾配に転ずることは自明だろう。絶対的な権威勾配が存在するということは、すなわち権威主義的なものが生じる根源となる。

 言うまでもなく、権威主義というのはグローバル化とは致命的に相性が悪い。何故なら、権威主義というのは本質的に自由な活動というものを嫌うからである。グローバル化という「流れ」が、個々人の自由な活動の上に成り立ち、かつ自由な活動があってこそこの流れが意味をなすことは今更説明するまでもないだろう。片や権威主義というのはすなわち権威・権力による統制ありきの価値観であり、グローバル化において肝要な「個人の自由」という価値観は必然的に否定され、摩滅させられる。すなわち、権威主義グローバル化は本質的に相容れないのである。

 

世界各国に見る中央集権との向き合い方

 とは言うものの、現在世界に存在する国々のほとんどは、19〜20世紀という「帝国主義から冷戦へ」という時代の歴史的な必然性から、程度の大小こそあれいずれも中央集権的な性質を持っている。そして、グローバル化の時代において中央集権国家の限界が見えてきているのは前述したように明らかである以上、多くの国々がこの流れに適応しようとしている。以下にその具体例をいくつか述べる。

 まず、我が日本を含む自由主義陣営の大親分といってもいい米国についてだが、ここはそもそも「合州国(United States)」の名の通り各州の権限が極めて強く、それ故に中央集権色が建国当初から薄いという極めて特殊な国である。だから、中央集権との向き合い方というものについては、建国当初からそもそもそんなに中央集権でもなかったので、あまり気にする必要もないという強大なメリットがある。

 続いて欧州の自由主義陣営の国々に目を向けてみよう。欧州で地方分権が比較的進んでいるドイツは、かつてナチスによる中央集権的な独裁という暗い歴史を反省するかのように、今では地方分権の優等生として存在感を放っている。同じようにかつて独裁政権下で地方を弾圧した歴史のあるスペインも、ドイツほどではないにせよ今では地方分権化が進んでいる。また、近代において一貫して民主主義国家でありながら、長らく中央集権・首都一極集中的な色彩が強かったイギリス(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)も、近年ではスコットランドを始めとする「国(country)」の権限が高まりつつある。欧州では最も中央集権的な国とされているフランスでさえも、近年は地域圏への権限委譲が徐々に進んでいる。

 では、自由主義陣営のアジアの国々はどうだろうか。韓国は長らく中央集権であり、今後もその流れが変わることはないだろう。だが、韓国は準戦時体制下にあるという特殊な事情を抱えている以上、一概に「地方分権化の流れに逆行している」とは言い難い。また、台湾も韓国ほどではないにせよ準戦時体制下にあるため、中央集権からの脱却が遅れているのは事実である。

 最後に、未だ権威主義体制が続いている中国・ロシアについては、その広大な国土ゆえに一見各地方(地方「都市」ではない)がある程度の自治権のもと繁栄しているように感じられるが、実際の所は首都の強大な権力による干渉が非常に強く、その意味ではガチガチの中央集権国家と考えても差し支えないだろう。これに関しては、見た目に騙されてはならないと考えなければならない。また、同じ権威主義体制であり、しかもそれ以上にグローバル化の流れに背を向ける北朝鮮については、もはや言うまでもないだろう。

 

東京至上主義体制から脱却できない日本

 ここまで、中央集権との向き合い方について実例を幾つか挙げたが、共通して言える流れとしては、権威主義体制の国や、そういう国々と最前線で対峙している国は、いずれも中央集権からの脱却ができていないと言えるが、そうでない国は徐々に中央集権からの脱却が進んでいると言っていい。では、我が日本はどうなのかと言うと、確かに中国やロシア・北朝鮮といった権威主義国家と国境を接してはいるものの、それでも在日米軍の庇護下にあるという国際的な立ち位置ゆえに、比較的軽武装で済んでいるという(分権化に進むうえでの)利点はある。だが、実際は東京の霞ヶ関・永田町による強固な中央集権体制が未だに続いており、そこからの脱却の流れは未だ見えていないと言わざるを得ない。これは東京という都市の性質によるものだと考えて差し支えないだろう。

 詳細は次回以降の記事に譲るが、東京(江戸)という都市は、実は徳川家康によって関東平野全体を統治するために開発されたランドパワー大陸国家)的な軍事都市として発展してきた。そして、その本質的な性質は実は令和の今も変わっていない。一方で、日本という国は地理学的には島国であり、すなわち地政学的にはシーパワー(海洋国家)と考えてよい。この矛盾こそが、平成以来の現代日本の停滞に関係しているだろうと私は考えている。

 いずれにせよ、現代日本の抱える諸問題の本質は、グローバル化という現象への適応が上手くいっていないということに由来し、そしてその原因は東京という「ランドパワー的軍事都市」が抱える矛盾にあると考えていいだろう。その具体的な分析を次回の記事で詳細に行うこととして、今回の記事を締めくくることにする。