グローバル時代の新国家論(3)〜大阪の復活が日本を救う

大阪はいかにして復活したか

 今やインバウンドバブルと2025年の万博に向けた開発ラッシュで日本一活気に溢れている都市であると言える大阪であるが、2007年まではありとあらゆる負のイメージに汚染され長い低迷期に喘いでいたのも事実である。実際、現代の大阪にとって最大の転機といえる2008年に橋下徹大阪府知事が就任するまで、大阪は「治安が悪い」「財政破綻一歩手前」といった状況から変わることができず、謂わば「大阪病」とも言うべき状況に陥っていた。その「大阪病」というのを具体的に説明すると、差別是正*1などをお題目にした公金によるバラマキ政策が際限なく膨れ上がり、住民にとって真に必要な公共サービスの質が劣化し、大阪都市圏としての長期的かつ経済的に意味のある成長戦略をまるで描けていない、そんな「公の腐敗」であると言えるが、これはまさに「社会主義の腐敗」と殆ど同じと言っていい。ちなみにこの「大阪病」の元ネタは「英国病」であるが、この原因が行き過ぎた福祉国家政策(=社会主義的政策)にあるのはもはや説明するまでもないだろう。

 さて、大阪が今のように復活したのは橋下徹氏が率いた大阪(日本)維新の会による行政手腕によるところが大きいのは言うまでもないが、ここでは維新の会の具体的な政策の是非についてというよりも、維新の会の理念について考えたい。維新の会という政党を「政治的に」分析するならば、日本では中道右派新自由主義を基本軸とする政党ということになる。だが、グローバルスタンダードに基づいて分析すれば、維新の政策自体は割と中道左派的(具体例としてはブレア、マクロンなど)と言ってよく、本当の意味で「新自由主義」であるとは必ずしも言えない。事実、維新は現役世代や子育て世帯への再分配や、なにわ筋線や淀川左岸線などの大規模かつ有意義な公共事業を重視した政策を行っており、その意味では米共和党的な「小さな政府」路線をとっているわけではない。しかし、それでも「日本的な文脈」においては「小さな政府の新自由主義政党」と見做されている。これは取りも直さず、戦後日本の政治に一貫して大きな影響を与えている自民党の政策が、特に田中角栄以降において「国家社会主義的」と言えるほど経済左派的なものであることと同義であると言っていい。そして何れにせよ維新はこの自民党の路線とは一線を画した政権運営を大阪で今も続けている。ここに「維新による大阪の復活」の本質的な答えがあると言っていい。すなわち、維新がやっているのは自民党的な利権差配からの脱却を、有権者・納税者を主体とした政策の実行という「凡事徹底」で行うということに他ならないが、それによって大阪が国家社会主義の毒を解毒することで、謂わば普通の自由主義経済都市圏として復活しているということになる。

 とはいえ、実際の大阪経済の躍進の原動力となっているインバウンドバブルや万博開発ラッシュは、確かに維新による大阪府政・市政の賜物であるわけだが、それよりも重要なのは民間による投資が拡大していることの方である。民間による投資の拡大は、確かに「民間活力の活用」という形で維新の政策の軸の一つとして存在するわけだが、それよりも重要なのは民間の投資家が「大阪に投資したい」と思わせるような機運である。この「投資したいと思わせる」ような機運がどれだけ重要かというのは、それこそ今の北朝鮮に投資したいとは(少なくともまともな経済観がある人は)誰も思わないというのを考えれば分かりやすいだろう。投資というのはリスクを負ってリターンを得る営みであるから、リスクとリターンが釣り合わなければ当然そこに貨幣や物的・人的資源が投下されることはない。維新は「身を切る改革」を合言葉に公金の流れの透明化や補助金バラマキの削減を徹底しているわけだが、このような政策が実施されていることによって「大阪は汚職が少ないから安心して投資できる」と投資主体が思えるようになることが大阪への投資を後押しすることになっているのは間違いないだろう。

 

大阪的価値観の復権

 さて、このような形で大阪への投資が進み、世界的に大阪が高く評価されつつある流れに乗っているのは間違いないわけだが、大阪が世界から高く評価される理由の一つに「ホスピタリティ精神」があるのは重要である。そもそも、万博にせよインバウンドにせよ、それらを成り立たせるのにホスピタリティの充実が必要なのは間違いないわけだが、大阪は幸いなことに古くから「天下の台所」や「食い倒れの都」としての歴史を有しており、それらが大阪のホスピタリティ精神を育んできたのは間違いない。そして、このホスピタリティ精神というのは、実は貨幣によって世界と繋がる交易・通商都市において培われる価値観に他ならない。そもそも、交易や通商によって成り立つ都市において、街を行き交う来訪者は基本的に「お客様」であり、そんな「お客様」をもてなすためにはそれ相応のホスピタリティが要求されるわけだから、当然といえば至極当然なのだが。

 更に言うと、このホスピタリティ精神というのは、そのまま「シーパワー的価値観」と言い換えることも可能である。というよりも、ホスピタリティ精神を中核としたさまざまな価値観の集積が、そのままシーパワー的な価値観であると言っていい。そして、それこそがまさに「大阪的価値観」であると言っていいだろう。よく、大阪は日本の中では非常に特殊な場所であると言われるが、これは今の日本が東京というランドパワー的価値観によって成り立ってきた都市の支配を隅々まで受けている中で、第二の大都市かつ西日本の中心都市として、そのような「東京的価値観」の影響からは独立した存在として存在感を放っているからに他ならない。以下にその「大阪的価値観」の具体例を、その対概念たる「東京的価値観」と対比しながらまとめてみたい。

  • 自由主義 ↔ 権威主義
  • 親資本主義 ↔ 社会主義
  • 合理性重視 ↔ 体面重視
  • 民間による投資 ↔ 官による投資
  • ダメと言われない限りはやってもいい ↔ やっていいこと以外はやってはいけない
  • 他人に世話を焼く ↔ 見知らぬ人は知らぬ存ぜぬ
  • よそ者に寛容 ↔ 排外的
  • 進取的 ↔ 保守的
  • 対等な人間関係が前提 ↔ すべての人間関係に序列をつけたがる

 ざっとこんなところだろうか。いずれにせよ、私がここに挙げた二項対立は、そのまま「海洋国家」と「大陸国」の価値観とそのまま言い換えることができるだろう。そして、島国であり古くから諸外国との交流によって文化を発展させてきた我が国日本がどちらの路線を取るべきかは、今更言うまでもないだろう。

 

大阪を蔑ろにする限り我が国に未来はない

 グローバル化という決定的で誰も逆らえない時代の流れの中では、必然的に海洋国家的な価値観、すなわち「大阪的価値観」こそが「グローバルスタンダード」になるのはもはや自明と言っていい。もっと言えば、先程挙げた「大阪的価値観」を受け入れることが、そのままグローバル化という流れへの適応であると言ってもいいだろう。逆に言うと、「東京的価値観」に固執するというのは、グローバル化の流れに背を向けるというのと全く同じであると考えて問題ない。そしてその先にあるのはただ破滅のみであると言っていいだろう。その具体例としては、それこそ東京における「京葉線ダイヤ改悪」という名の周縁地域切り捨てもそうだし、ウクライナ東部で壊走を続けるプーチンロシアの軍隊もそうである。もっと言えば、反米を旗印に掲げる北朝鮮やイランにおける人権侵害だって、元はと言えばグローバル化に逆らった結果国全体が貧しくなり、国民を等しく食わせられなくなったからであると言っていいだろう。いずれにせよ、このような醜悪な行為は、権力者やその取り巻きを除けば誰も幸せにしない。

 そういう意味では、東京の中央政府や東京マスメディアは今こそ大阪に対する差別的と言ってもいい冷遇・偏向報道・バッシングの類を今すぐにでもすべて取り止め、その非道を公的に謝罪し、自らがその権力を手放す必要があると私は考えている。だが、残念ながら腐敗しきった今の東京マスメディアにはそのような自浄作用を期待することはできないと思っている。この記事の本題からは逸れるが、俗に言う「文春砲」だって、週刊誌という東京マスメディアが自らの金儲けのためだけに一方的に有名人を吊し上げているという意味では、東京の不動産の資本価値の維持のためだけに大阪に対するネガティブキャンペーンを繰り返すプロパガンダ発信と全く同相であると言っていい。そういう態度を見ている限り、東京マスメディアに自浄作用を求めることは無駄だと断じるしかないだろう。

 となると、最終的には(グローバル化を受容しそれに適応する西側諸国の)外圧によって今の東京中心の権力構造を破壊し、中央集権を終わらせて地方分権を進めることにより、「東京的価値観」の毒を抜いて「大阪的価値観」を日本全国に浸透させる他ないという結論になる。こう書くと、他の地方から「押し付けられる価値観が東京から大阪に変わっただけで何も変わらない」と突っ込まれるかもしれないが、その心配は無用である。何しろ、「大阪的価値観」を受け入れるというのは、そのまま「グローバル化の流れに適応して地域経済を豊かにする」ことと同じである。そしてそれは日本という国家の解体という意味ではなく、むしろ日本という国家の「グローバル化への適応」とみなしてもよい。次回の記事ではこの「地方分権による日本という国家のあり方の変容」について論じることにする。

*1:これについて詳しく語るのは、少なくとも真の意味で大阪が地元であるとは言えない私には難しいし、ブログ記事の本題からは逸脱するので割愛する。