なぜオタクは東京一極集中しているのか

 そう言えば、X (旧Twitter)を見ていると、やたら「葬送のフリーレン」だとか「【推しの子】」だとかの広告を目にしますよね。きっとリアルでも流行っているのでしょう。そう思っていざ街に出ると、意外とその広告を目にしないんです。私は大阪に住んでいるのですが、大阪の都心といえる梅田や難波、心斎橋でもまあ見ませんね。せいぜい日本橋オタロード界隈にちょこっとあるくらいです。

 ということは、これらのアニメ・漫画は、少なくとも大阪では言うほど流行ってないってことなんでしょうか?多分、東京だとこの手の広告は腐る程ありふれているんでしょうが、この差は一体何でしょう?私は今年2023年の年末にコミケのために東京へ行きますが、その時に改めてその手の広告がどれだけ氾濫しているか、確認してみたいものです。(コミケという特殊な場であることを考慮する必要はありますが)

 

 さて本題に入ります。どうしてこの手の「オタクが好きそうな」漫画やアニメ・ソシャゲの広告が、大阪の街中にはほとんど存在しないのかという話です。結論から言うと、広告を出すほど大阪では流行ってないからです。

 いやいやそんな単純な理由だったのかと。でも、考えてみてください。広告を出すのって無料じゃないんですよ。しかも、大阪の街中という衆目を集めるような場所ですから、それには相当な額の広告費がかかるはずです。広告を出したい会社からすれば、広告を出すにはそれ相応の費用対効果が必要になるはずです。私自身、所謂勤め人とやらには向いていないという自覚はありますが、それでもビジネスマン的な物の見方が全くできないとは思っていません。むしろ、下手な大学卒もどきよりかは、よっぽどこの手の認識はしっかりしているという自負はあります。広告を出しても費用対効果が薄いような場所には広告を出さない。当たり前の話です。

 この観点に関して、卑近な例を挙げてみましょう。秋葉原に乳児用紙おむつの広告が殆ど無い理由は何故でしょう?それは秋葉原に乳児用紙おむつを買うような人が殆ど来ないからです。これは秋葉原が「オタクの街」であり、それ故に基本的に若い独身男女をターゲットとした商売が成り立っているからです。ゆえに、乳児用紙おむつのメインターゲットとなる「子持ちの若い夫婦」は、秋葉原という(特殊な)商業地域のメインターゲットからは、どうしても外れてしまうので、彼らをメインターゲットとする商品の広告を出しても費用対効果が薄くなるのは明らかでしょう。

 

 話を戻すと、オタク向けアニメなどの広告が大阪の街中に殆ど無いのは、少なくとも大阪の街中を闊歩するような大多数の層にとってはこれらのアニメが受けていないからだと言えます。ではなぜ東京やSNSにはこの手の広告が溢れているのでしょうか。それはそれらの場所にはそれらのコンテンツのメインターゲットとなるような層(すなわち「オタク」)が多いからです。ではなぜ「オタク」は東京に多く、大阪(もっと言えば東京以外のほぼすべての地域)では少ないのでしょうか?

 オタクが東京に一極集中している理由は簡単です。地方から(マスメディアも含めた)公権力によって日本国内のあらゆるリソースを掻き集めて一極集中体制を築き上げている東京という「官製都市」特有の事情が、オタクという生き方と上手くマッチしているからです。もっと言えば、オタクという生き方が社会的に許容されるようになる流れは、東京一極集中の進展とほぼ時系列を共にしています。

 そもそも、オタクという生き方は、リアルの人間関係(血縁・地縁)とは一線を画す傾向が非常に強いのは言うまでもありません。そして、東京というのはそういうリアルの人間関係を基本的に薄めたり否定したりして成り立っている都市であるのは言うまでもありません。(大阪もこの傾向はありますが、東京ほどではありません)リアルの人間関係が濃密に残る地方部(ここでは「東京以外」を指します)において、オタクは基本的に生きづらさを感じるので、東京に流れ着くようになります。そして、オタク人口は現実の日本の人口分布以上に露骨な東京一極集中傾向を示すようになるので、結果的にオタク向けコンテンツの供給も東京一極集中するようになります。ゆえに、オタクはますます東京へと流れ着くことになります。これが「大阪でさえオタク向けコンテンツの広告が少ないのはなぜか」という疑問の答えです。

 

 東京一極集中の是非については、少なくともこの記事においては取り上げません。ただ、オタクという生き方が東京一極集中と強い相関関係にあることは事実です。そして、オタク消費の今後が、東京一極集中という構造の変化と共にどう変化するかは注目の余地があると言えるでしょう。今回はここまでとします。

暴力から離れるための「その日暮らし」

 恥ずかしながら、かつての私は「暴力による解決」を正当化しどこかそれに期待していたことがある。もちろん、真っ当な価値観の持ち主であれば、暴力による解決などとても受け入れ難いだろうし、法治国家としてもテロリズムの肯定に他ならない。それ以前に、暴力は結局のところ憎悪を生み出し、暴力の連鎖しか生み出さない。

 暴力というのは何も直接ドンパチやったり人を殺めたりすることだけではない。詐欺のような経済的な暴力だってそうだし、売買春の正当化のような性的な暴力だってそうである。どんな形であれ、暴力というのはいつだって誰かを悲しませるし、憎悪を増幅させるばかりである。そして、そんな社会の行き着く先は、結局のところ恐怖政治だったり、治安が崩壊したスラム街だったりする。暴力というのはどんな形であれ、行使した人の自己満足以外には何も生み出さないし、負の感情ばかりを増幅させる。いや、もしかしたら暴力に訴えた当事者さえも心が満たされることはないだろうし、満たされぬ心の空白を埋めるために更なる暴力へとエスカレートしていくかもしれない。何れにせよ暴力は誰も救わないし、本来なら救われるはずの人さえ地獄へ叩き落とす。

 

 さて、私がなぜこんな殺伐とした価値観に染まってしまったか、その経緯についてここで振り返っておかなければならない。

 私は愛情に恵まれない少年期を過ごしてきた。より正確に言うと、機能不全家庭における構造的な歪みというかしわ寄せを、すべて押し付けられた先が自分であった。

 私の実の両親は物心付いたときには既に離婚していた。私は父親に育てられ、時折母と面会する機会があった。少なくとも、義理の母親、いや母親のような何かとその連れ子がやってきて再婚するまでは、実の母親と面会することに何ら障壁はなかった。

 義理の母親となのるその女性が連れ子の娘と共に我が家に住むようになってから、私を取り巻く運命は一変してしまった。その女性は私に対して、ありとあらゆる意味で抑圧を続け、厳しく束縛し、私自身に対する支配を強めていった。その結果、私は反抗期を通じても大人しく従属的な性格から抜け出すことができず、その年代の子供らしい子供でいることはできなかった。もっと言えば、その女性はマスメディア関連の勤め人かつマスメディア脳の人間であり、そもそも勤め人に向かない気質かつマスメディア脳ではない私とは相容れるはずがなかったし、私の父親もそうであった。だが、父親は彼女と同居することを優先するあまり、私自身とよく似ているはずの、自らの本来の気質をかなぐり捨てて洗脳されていった。

 

 こうして、自分は「偽りの家族共同体」における歪みを一身に引き受けさせられ、その結果家族という最も身近な存在に対して不信感を抱くようになってしまった。そこから、結局は暴力しか自らを救わないという間違った思い込みを抱くようになってしまった。だが、実のところ私は暴力を振るうということ自体がそもそも好きではないし、もっと言えばできるはずのない人間だった。お世辞にも腕っ節の強い人間ではないし、それに暴力団や半グレと言われるような人々の間に入ることもできないようなそういう性格であるにも関わらず、気づけば「暴力以外に自らを救う術はない」と誤った思い込みをするようになってしまった。

 中身のない人ほど虚勢を張りたがる。これはまさにかつての自分自身を端的に表す言葉であった。そもそも体当たりでの喧嘩なんてできないし、本来はそういうのを避けるような性分であるにも関わらず、自分にとって実際は有害無益な価値観を正当化するために虚勢を張っていたというのはまさにその通りであった。

 

 性的なものに対する依存も、先程述べた暴力的な「自力救済」への渇望と同じようなメカニズムで増大していった。実際に、愛情に恵まれずに育った身としては、真っ当な愛情から生まれる健全な感情など持ち得るはずがなく、歪んだ依存関係を前提とするような愛情でさえ、本来の意味での愛情と勘違いして渇望するようになっていたのは事実である。かつて、私自身はもしも女の子として生まれていたら大学をサボってまで悪質な売掛をするホストにバイト代を注ぎ込み、結果としてこっそり性風俗店で働くようになったり立ちんぼ(街娼)になっていたかもしれないという、あまりにもネガティブな想像ばかりしていた。そのような想像に走らせるのも、元はと言えば愛情への渇望であり、それが歪んだ恋愛もどきの性関係や性行為そのものへの衝動としてそうなっていただろうという、私自身の過去を振り返っての考察だった。とはいえ、そのような「考察」は、性風俗のような「汚い」世界を忌み嫌うような人を大いに傷つけるのは事実であるし、実際に傷つけてしまっていた。このことについて、私は今も反省しているし、そのようなことは考えないで、代わりに理系女子として活躍していたとかそういうポジティブなことを考えるようにしている。それが私のネガティブな発言に傷つけられた人たちへの、せめてもの罪滅ぼしだと思っている。

 

 話を元に戻すと、私は愛情に飢えていたがゆえに「最後はターミナル駅で通り魔殺人事件を起こして果てるしかないだろう」などと考えていたのは事実である。少なくとも腐敗しきった実家から距離を置くまではそうであったし、自死をほのめかすことすらあった。しかし、私が実家から距離を置くようになり、日々を自分自身の力で生き延びることに専念し、精神的なケアを受けていくうちに、そのような殺伐とした価値観はどんどん薄れていくはずだった。しかし、自分が実家で受けた心の傷はそう簡単に癒えることはなく、それゆえにそういうネガティブな発想を続けてしまい、やはり同様にそのような発言を聞いた人を傷つけてしまっていた。もうこのような発想は二度としないことを、この場を借りて誓いたい。

 だからこそ、私は「その日暮らし*1」をテーマに、会社を辞めてUber Eats配達員になったりしてまで、日々を精力的に生きるようにしている。その日暮らしといっても、決してネガティブな意味(毎日生きていくだけでやっと)ではなく、日々を「やるべきこと」と「やりたいこと」、「やると決めたこと」で埋め尽くすという、非常にポジティブな意味の話である。この「その日暮らし」は、言い換えれば今まで腐敗しきった実家やその周辺の環境で受け続けてきたノイズの悪影響を可能な限り縮減するために、日々を意味のある活動で埋め尽くす、すなわち「シグナル」でノイズを薄めることでS/N比を正常化するという営みである。日々を精力的に、それこそ"carpe diem."(日々を掴め=今を一生懸命生きよ)の精神で過ごすことで、そういう暴力的な発想に至らせるような「暇」を無くすことが、本質的に最も重要であり、今後の自らの人生の基本方針であることは間違いない。

 

 私が不遇な環境故に暴力的な発想に頼らざるを得ず、その結果過去に人を傷つけてしまったという事実を隠蔽したり抹消したりすることはできない。ただ、今を一生懸命生きることで、そのようなネガティブな発想に走らないようにするということで、傷つけてしまった人へのせめてもの償いとしたいし、今後同様のことが二度と起こらないようにしたいと私は考えている。今後も私の人生における難局は限りなくあるだろうが、その度に「今を一生懸命生きる」ことを思い出して、全力で乗り切るようにしたい。というわけで今回の記事の終わりとする。

*1:広島東洋カープ2023年シーズン監督・新井貴浩氏の言葉。

信義・信頼・恩義・感謝〜普遍的な美徳

 人間は、究極的には己の損得ベースで、生物的な本能に従って生きている。しかし、人間は集団で生きている以上、個々の「欲望」同士は必然的に衝突する。甲にとっては利益となる行動が、乙にとっては損害となるというのはありふれた話である。このような衝突を丸く収め、人類という種や、もう少し狭くとって国家や会社、家族といった共同体全体の最適を目指すためにあるのが、道徳や理性、宗教、民主主義といった概念であるのは言うまでもないだろう。その中でも、信義を貫くというのはというのはあらゆる文化圏において尊ばれる徳目であると言っていいだろう。

 信義を貫くというのは、時には自らに不利益な選択であったりすることもある。ただ、信義を貫き続けることによって得られる相互の信頼関係は、長い目で見ればいずれ己に利益をもたらすのは間違いない。信義を軽んじ、私利私欲によってのみ動く者は、目先の利を最大限に追うことはできても、いずれその周りから人は離れていくだろう。逆に、信義を重んじ、それに違わぬように常日頃から自らを律して行動する者は、自然と他者からの信頼を積み重ね、やがてその恩恵は自分自身のみならず関わり合う者すべてに及ぶだろう。

 

 さて、信義を貫くという人類社会に普遍的に存在する美徳を実践する上で、私が特に重視しているのが、恩を忘れないということである。恩を忘れないということは、すなわち「自分が受けた恩に対して感謝の気持ちを忘れない」ということである。そして、自らの不行状により、恩義を感じている人を傷つけ、その信頼を毀損してしまうようなことがあれば、己の罪を深く恥じて反省し、その罪を償うことで相互の信頼の回復を目指そうとする姿勢を示すことである。ここで重要なのは、恩義というのはあくまでも受けた側がありがとうと感じる気持ちであって、決して施した側が「私に恩義を感じよ」と強制するようなものではないということである。

 恩というのは、あくまでも恩を受けた側の感情である、恩を施した側への感謝に端を発するものである。だから、恩を施した側が、将来的な私利を見込んで恩を施したとしても、受けた側がそれに感謝の気持ちを抱けば恩義は成り立つし、逆に善意のつもりでやった行為であってもそれを有難迷惑だと思うのであればそこに恩義は成り立たない。そして、恩を施した側としては、そんなこともあったなとあっさり忘れてしまったとしても何ら問題はない。(むしろ、過去に恩を施したことを有難く思えなどと思い上がった態度を取ると、相手からしてみれば恩着せがましいという評価になり、煙たがられるだけである。)恩を施すというのは、偏に「困っている人を捨て置けない」という純粋な善意に基づく行為であると私は思うし、実際に私の行動指針としてもその通りでいたい。

 一方、恩を受けた側としては、自らが受けた恩恵に感謝の気持ちを抱くのであれば、そのことを忘れずにそれに報いようという感情が湧き上がってくる。そして、恩義を感じている人に対する信頼という感情もまた生まれてくる。世間で言う「義理堅い人」というのは、恩を施した側としては「そんな大昔のこととっくに忘れたよ」というようなことであっても、そのことをいつまでも忘れず、機会があればいろいろな形で感謝の気持ちを伝え、それに報いるような行動をしようという姿勢を取る人に他ならない。このような態度は、当然過去に恩を施した側としても、逆に「過去の自分のちょっとした善意に対して、ここまでして報いようとしてくれるのか」という気持ちを自然と起こさせて、感謝の意をお返しするということにもなるだろう。そういう意味でも私は義理堅い人でありたいと思う。別に義理堅いと他人に肯定的に評価されたくてそう思っているわけではなく、ただ道義に尽くす者として義理堅くありたいというだけである。

 

 さて、ここまで「恩」について述べてきた。恩義を感じている相手には、それ相応の態度をとり続けることが、相互の信頼を積み重ねるのが当然であるが、自らの不行状により恩義を感じている相手を傷つけてしまい、信頼を毀損してしまうこともあるだろう。このようなことをしてしまうのを「恩知らず」といい、非常に不道徳な行いであると見做される。ここで、自らがその行いに対して、恩義などどうでもいい、自分は自分のやりたいようにやるだけだ、というのであればそこで関係は断ち切られ、復活することもないだろう。しかし、恩義を感じている相手を傷つけてしまったという悔悟の念があり、どうにかして失われた信頼を取り戻したいという真心からの思いがあるのなら、そこに反省と償いという気持ちが自然と生じてくる。その中で、自らの不行状を認めてそのような行動に至る経緯を振り返り、再び過ちを繰り返さぬように反省し適切な策を講じるという一連の流れが、やがて信頼を傷つけてしまった相手の心を動かすと言えるだろう。

 ここまで、人の信頼を損なうという罪を犯した側が、その失われた信頼を取り戻そうという真摯な思いによる改悛の流れについて述べてきた。では、信頼を損なわれた側からはどうだろう。せっかく今まで相互に信頼を築き続けてきた相手に裏切られるというのは、とても堪え難い苦しみであり、その相手をもう二度と許さないと思うようなことがあっても何ら不自然なことではないだろう。信頼を積み重ねるのは長い時間を要するが、その信頼を損なうのは一瞬であり、また信頼を回復するにはそれ以上に長い時間を要する。あるいはもうその失われた信頼は二度と取り戻されないかもしれない。ダンテ・アリギエーリの「神曲」において、地獄の最下層であるコキュートスは「裏切者の地獄*1」として描かれた。これはダンテが幾度となく裏切られてきたことに対する怒りをもとに、裏切りを最も重い罪として描いたからである。裏切りというのは人を失望させるという意味でも、それだけ重い罪であると言えるだろう。そして、それが自分に恩義を感じている相手であるならば尚更である。

 とはいえ、かつて自らを裏切り落胆させた者であっても、そのことを悔いて自身の罪を償おうという強い意志をはっきりと示し、申し訳なかったと謝罪すれば、裏切られた側としても、その人のことを根底で信じているのであれば、罪を許すことは普通にあり得る。場合によっては、雨降って地固まるという諺のごとく、かつての過ちを認めて反省し、ある程度の時間をかけて距離を置くことで互いの存在の有難みを再度認識し、時が満ちたところで謝罪するという流れにより、相互の信頼がまた深まるということもあるかもしれない。罪を犯したところで、その罪を悔いて改めるという真摯な思いに基づく誠意ある行動を取れば、罪そのものは消えずとも罪によって生じた不信感を拭い去ることはできる。

 

 今回はここで筆を擱く。誠意と人道に基づく行いこそが、相互の信頼を生み、過ちを犯してもそれを悔い改めることで完全に険悪な関係に陥ることを防ぐこともできるはずだと私は考えている。私はそういう意味でも道徳的な人でありたいし、今もそのように道徳的であろうと日々を生きている。

*1:それぞれ4つの同心円に区切られ、外側から順に肉親への裏切り、祖国への裏切り、客人への裏切り、主人への裏切りとして描写される。そしてその最も中心には、神を裏切った堕天使ルシフェルが幽閉されている。

寄り添いと切り離し

 人に寄り添うのは本当に難しい。それもそのはず、他人の感情というのは誰であれ完全には分かり得ないし、個々の事情はそれぞれ異なるがゆえに、同じような事象についても適切な対処は人それぞれで変わるからだ。これは何も所謂「空気が読めない発達障害」でなくても、誰にとってもそうである。

 もっと言えば、人に寄り添うということは、本質的にその相手が自分自身に対して多かれ少なかれ依存することを正当化するのとある意味では同じである。この依存というのが危険な代物であるというのは以前の記事(以下リンク参照)で述べた通りである。一度依存されて、それがエスカレートすると自らを苦しめることになるわけだし、ひいては共倒れという最悪の結果を招きかねない。だから人に寄り添うのは難しいし、ある意味ではリスクを伴う行為であると言えるだろう。

scarlet0626.hatenablog.com

 とはいえ、人に寄り添うということで得られる信頼関係というのは非常に価値があるものではあるし、寄り添ってもらうことで心の安寧が得られるのもまた事実である。そして、寄り添いによって得られた心の安寧という価値に対して、寄り添ってもらった者が寄り添った者に感謝の気持ちを抱くことは自然な感情と言えるだろう。だからこそ、長期的な信頼関係の構築のために、リスクを負ってでも人に寄り添うことには意義があると言えるかもしれない。そういう意味で、寄り添いというのは諸刃の剣である。

 

 さて、寄り添うという営為についてここまで述べてきたが、寄り添いというのは別の言い方をすれば「他人に無条件に寄りかかられることを許す」ということに他ならない。そして、他人に寄りかかるというのは、依存という歪んだ人間関係の一歩手前であるのは前に述べた通りである。だから、適切な距離感を維持しつつ相手に寄り添うためには、どこかでその相手を「切り離す」必要が出てくる。切り離すと言っても、別に相手を冷たく突き放すということではなく、むしろ相互に健全な関係を維持するために適切な形で距離を取るということである。そして、この「切り離す」という概念を実際に具体的な行動に移す上で欠かせないのが、また別の記事(以下リンク参照) で述べた「人間を外す」という概念である。

scarlet0626.hatenablog.com

 人間を外すというのは、端的に言えば人間が絡んでくるような諸々の事象をいったん切り離して、人間(特に複雑な人間関係)とは無関係な事実だけに基づいて考えるということである。そうすると、自ずと「寄り添い」を求めている人が訴えていること(その人が解決したいこと)の本質、すなわち「本当に解決してもらいたいこと」が浮かび上がってくる。そもそも寄り添いを求めるというのは、その人が事の大小はともかくとして何らかの問題や悩みを抱えており、それを一人で抱え込みたくないというメッセージの発信である。そして、そこには寄り添いを求める当事者のグチャグチャした感情があり、それを整理したいという訴求も隠れているということも付言しておく。つまり、寄り添い―寄り添われという関係には、必ず何らかの「問題」が隠れているということが言える。

 そうなると、寄り添いという営為そのものは「共感」という感情的な行動ではあるが、その先にあるのは「問題の解決」という感情的ではなくむしろ論理的な行動であるという結論に辿り着く。すなわち、寄り添う側としては、寄り添われる側が発している「助けて(Help me!)」というメッセージを受けてそれに答える中で、どうすれば本当に相手を助けられるかというのを考える必要が出てくる。その中で、「人間を外して」物を考えると、問題の本質が見えてきて(より細かく言うと、人間とは無関係な構造に由来する問題がその有無も含めて浮かび上がってきて、その中で相対的にではあるが人間に由来する問題が浮かび上がってきて)解決へと近づくことになる。

 逆に、ただ闇雲に寄り添うだけだと、人間を外すという思考を経ていないので、寄り添われる側のグチャグチャした感情を整理できず(より正確には、そういうグチャグチャした感情を整理するための端緒を見つけられず)、むしろそれに呑み込まれていくことになる。そうなってしまうと、寄り添いを求めている側が本当に訴えている「問題の解決」からは唯々遠ざかっていく一方になり、結果として依存やら束縛やら、共倒れという本質的な解決とは真反対の方向に向かってしまう。

 

 ここまで、寄り添う側からの「人間を外す」という考え方の意味について述べてきたが、人間を外すというのは寄り添われる側にも当然役に立つものである。寄り添ってくれる人が人間を外して考えることで、寄り添ってもらう相手が寄り添ってくれる人に依存するという好ましくない構造に陥るのを防いでくれるのは言うまでもないが、寄り添ってもらう側も「人間を外す」ことで、寄り添ってくれる相手も結局は(自分の人生を生きているわけではない)他人に過ぎないと割り切り、寄り添ってくれる側が導き出した解決への端緒に気づくことで、自分自身の力で問題の解決へと近づくことが容易になるというわけである。

 もちろん、寄り添われる側が「人間を外す」ことで得られるメリットはこれだけではない。寄り添ってもらったことに感謝するのは信義則の観点から当然としても、その感謝の対象はあくまで寄り添ってくれるという善意の行動に対してであるということを意識しておくことで、誰からの寄り添いであっても、それが結果的に自らにとってプラスになるのであれば受け入れるという公平な態度を取ることができる。だから、依怙贔屓ではない公平な人付き合いができ、同時に特定の誰かへの依存を避けることもできる。

 

 ここまで、寄り添う側と寄り添われる側の双方において、相手を「切り離す」ことの重要性について述べた。他人の痛みに共感するというのは人間としての情の表れではあるが、それでも結局のところ「他人は自分の人生を生きているわけではないし、自分もまた他人の人生を生きているわけではない」ということには変わらない。だから、どこかでお互いに線引きをして(別の言い方をすれば自他の境界をはっきりさせて)、自分自身が抱えている問題を自分自身が主体となって解決できるようにする必要がある。義理人情を重んじるというのは、そういうところまで含めてではないだろうか。真にその相手のことを思いやりたいのであれば、相互の「ここからはプライベートな領域なので足を踏み入れてほしくない」という境界線をしっかりと守る必要がある。プライベートな領域を土足で踏み荒らされるのは誰だって不愉快なものである。逆に、そこを守った上で、それでもなおお互いに深く寄り添い、共に助け合うという関係であれば、良い意味での友情(友情と呼ぶには難しいほどの立場の違いがあれば、忠義とかに置き換えてもよい)を長く維持できるだろう。

 今回はここまでとする。人間を外すという、一見「非人間的に感じられる」考え方こそが、実は本当に健全で人間的な関係を維持するために必要であるということだけでも、理解していただければ有難いと私は考えている。人間を外して物を考えた上で、どこかで相手を切り離すということが、寄り添いというリスクのある営みにおけるリスクヘッジとなることは、今後の人生においても十分役立つだろう。

大阪都心でUber稼働して思うこと

大阪都心だと基本的に同じ行政区か隣同士の行政区で完結する案件が多いので他の区を間に跨ぐだけでも遠いと感じるようになる。ついでに言っておくと大阪市の行政区はクソ狭い。

○世間的には3kmはロング案件ではないらしいが大阪都心を自転車で稼働してると普通にロング案件という認識。1km未満の案件も全然珍しくないので。

○最低保証金額の300円の配達案件のことをスリコといい、配達員界隈では忌み嫌ってる人が多いが自分からしてみればどんな短距離だろうがそれだけは確保されてるのでむしろありがたい案件だったりする。

○受けキャン(受けた依頼の拒否)は余程のことがない限りやらない。やるメリットが薄いので。

○地図上では大阪市中央区だけど、実質的に旧東区(船場・大手前)と旧南区(心斎橋・アメ村・難波・松屋町)は完全に別物。なんで住民の合意なく勝手に合併しやがった。

○路駐はクソ。車としても迷惑だろあんなの。

○大川を越えるような移動はまあ少ない。個人的には基本的にミナミで稼働してるので梅田・福島ですら遠征という認識。

○配達員やってて一番ワクワクするのはホテルに泊まっているインバウンド観光客。片言の英語でやりとりしつつ最後に「サンキュー」と言うその瞬間が一番楽しい。

 

とりあえずこのへんで一度筆を置く。

束縛・依存という病

 束縛というのは本当に厄介な代物である。何しろ、束縛している側は相手を束縛している自覚がない一方、束縛される側からしてみれば嫌でも束縛している相手を意識させられるものであり、実際に自分自身の心理的安全性やトータルでの生産性*1を毀損されるという意味でも迷惑千万なものである。そして、その束縛という歪んだ人間関係の行き着く先がDVであったりストーカー行為であったりする。DVやストーカーというと男女関係のそれが目立つが、別にこれは男女の恋愛に限らず、あらゆる人間関係について成り立ちうるものである。

 先程、束縛されるということは自分自身の心理的安全性や広い意味での生産性を損なうことに等しいと述べたが、実は束縛している側についても同じことが言える。相手を束縛しないと維持できないような人間関係に依存しているというのは、即ち人間関係という本来は非常に流動的なものを、無理やり固定化しているわけだから、必然的にその時々の自分自身にとっての最適からは遠ざかることになる。ゆえに、誰かを束縛するということは結果的には自分自身の心理的な意味での最適化を妨げることと同じで、その先に待っているのは破滅である。

 

 先程、束縛というのが結果的に自らの生産性を低下させると述べたが、束縛というのは実は「特定の人間関係に対する依存」と言い換えることもできる。そう、アルコールやニコチン、あるいはギャンブルや買い物、性的逸脱に対する依存と、構造としては同じである。いずれにおいても、依存というのは長期的に見て自らの人生における「最適化」を妨げることに繋がり、放置すればやがて破滅へと転げ落ちていくのは言うまでもない。そして、これらの「依存症」は、本質的には神経症の一種であり、適切なメンタルケアによって寛解されるべきものである。その具体的な手法として最も普遍的で効果があるのは、以前の記事で述べた通り「暇を無くす」ことに他ならない。暇でいることによって日々大量に受信するノイズ(ゴミ情報)を、有意義な活動によって薄めることにより、ノイズの影響を下げることに意味があるからである。別の言い方をすれば、大量のシグナル(意味のある情報や生きた現場知など)を日々自ら生産してノイズを薄めることにより、S/N(シグナル/ノイズ)比を正常化することが、神経症の原因となるノイズの悪影響を抑えることに繋がるということに他ならない。

 そして、このやり方は、束縛されている側と束縛している側双方に対して効果を発揮する。束縛されていた側からしてみれば、暇を無くすことによって自分を束縛してくるような人(長い目で見れば自分自身の人生においては確実に有害な存在である)を無視できるわけだし、束縛していた側も今まで他人を束縛することに充てていたエネルギーをより有意義なことに使えるので、相互の関係も、適切な距離感が生まれるという形で自ずと改善されていくことになる。(その行き着く先が相互の絶縁だったとしても、決して悪いことではない。所詮束縛ありきでしか成り立たないような人間関係など、無い方がマシだから。)これこそが、束縛という歪んだ人間関係を、適切な距離感と対等性の担保、そして相互尊重という形で健全な人間関係に改善させる流れであり、同時にそれはあらゆる依存症の寛解のプロセスとしても有用であることは今更言うまでもないだろう。今まで依存していた過度の飲酒や賭博といった対象が、今の自分の人生にとっては所詮ノイズにすぎないことを自覚し、それを精力的で有意義な活動というシグナルで「薄めていく」ことで、自ずとS/N比を正常化させることに繋がるからである。

 

 さて、束縛と依存症というのが本質的には同じようなものであるとはすでに述べた通りであるが、これらに関してはここまで述べてきた寛解の方法とは別に、ちゃんとした予防法があることも書いておきたい。それはすなわち前回の記事で述べた「人間を外す」ことである。より具体的に、この文脈に即して言い換えるとすれば、他人は所詮他人と割り切って適切な距離を置くことである。

 この「他人は所詮他人と割り切る」というのは非常に重要である。もっといえば、それは「当たり前の感覚=常識(コモンセンス)」として認識されるべき内容である。自他を問わず誰であれ、他人の人生を完全に自分のコントロール下に置くことは、その相手から「個の自由」を完全に剥奪して奴隷状態にしない限り不可能なことである。現代社会において、「個の自由」は前提条件である以上、実質的に(自立した大人である)他人を支配するというのは不可能といっていい。すなわち、他人の人生に言動を通じて何らかの働きかけをすることは可能だが、他人の人生そのものを変えることはできないということを当たり前の常識として認識しておくことが必要である。別の言い方をすれば、自分は他人の人生を生きていないし、他人は自分の人生を生きていないという、ただそれだけの話である。

 この「当たり前」が身についていないと、他人の個人的な領域にまで平気で土足で踏み込むことになるし、自分自身も他人の言動に一喜一憂して結果的に心を他人に支配されてしまうことになる。これこそが、束縛や依存に対する「予防」たる所以である。というか、この「当たり前」が広く周知され、そして徹底されていることが、自由社会の前提条件であるとも言えるだろう。

 

 自分は自分、他人は他人と割り切って、互いにある一定のラインを定めてそれ以上は深く干渉しないというのが、自由な個人によって成り立つ社会の前提条件であると述べたが、その逆が個の自由が抑圧された権威主義全体主義の社会であるのは言うまでもない。そして、これらの社会はみな例外なく、イデオロギーという「人工物」に支配されている。すなわち、本来は自然法則や常識の上に成り立ち、実際に起きている現象に適応して変化すべきものである人間社会を、凝り固まったイデオロギー固定観念)ありきでそれに社会が適応すべきというふうに設計し、人間もそれに合わせられるように支配するという歪なものにしてしまっている。当然そんな社会は現実に即していないので、あらゆる面において歪みが生じることになる。イデオロギーありきの権威主義社会とは、結局のところそうやって社会が現実に適応していないが故に生じる歪みを放置し、むしろその歪みをより大きくするという意味で、持続可能な社会ではないと言えるだろう。

 だからこそ、俗に言う左右を問わず、イデオロギーというのは基本的には唾棄されるべきものでしかないし、もっと言えばそれに脳を支配されている状態の人間は、嗜癖に対する依存や特定の他人に対する束縛と同様の状態にあると言っていいだろう。つまり、イデオロギーというのは一種の神経症であると言える。となると、イデオロギーに脳を支配されてしまう原因が、その人が暇を持て余しているからというのも自ずと見えてくるだろう。現実社会を精一杯生きている、すなわち切って血が出るような濃密な活動で日々を埋め尽くしているような人は、どう頑張ってもイデオロギーに脳を支配される余地などない。イデオロギーに脳を支配されるのは暇人であるというのはその対偶として成り立つが、それ以上に脳内が情報のゴミ屋敷になっているので、そのような異常な状態を満足させるためにイデオロギーに依存してしまうとも言えるだろう。つまり、イデオロギーに社会を支配されないためには、個々人が日々を有意義に過ごすのが必要不可欠であり、そのためには暇人を生み出し暇人でいることを正当化するような構造を徹底して否定し破壊していく必要があるだろう。

 

 今回はここまでとする。他にもまだ書きたいことはたくさんあるので、書けるネタがまとまったものから順次このくらいの分量の記事として更新していくことにしよう。

*1:心理的安全性は、生産性を担保する重要な要素の一つであるのは言うまでもない。

人間を外すということ

 人間を外す。最初にこの言葉を聞いたとき、私は何のことだか全く理解できなかった。より粒度の細かい表現をすれば、今まで私の脳内にあった日本語のコーパスにおいて、「人間」という名詞と「外す」という動詞が全く結びついていなかったので、それらを繋ぎ合わせた「人間を外す」という表現が、自分の脳内において定義付けすらされておらず、計算機でいうエラーを吐き出してしまったということになる。

 と、こういうしょうもない前置きはここまでにして、改めて「人間を外す」ということについて説明しながら考えていくことにする。

 

 人間を外すとはどういうことか。それはすなわち「人間的な諸々に由来する要素を切り離す」ということである。別の言い方をすれば、自然法則だとかシステムだとか、そういうものをベースに考え、可能な限り人間に由来する様々な影響を排除していくことであるとも言える。

 そうは言っても、社会を形作っているのはとどのつまり人間なんだから、本当に「人間を外す」なんていうのは無理なんじゃないのかと思ってしまうのが普通である。実際、この言葉を初めて聞いたときの私自身の感想というか認識もその通りであった。しかし、実のところ人間社会をより豊かにしていくようなイノベーションは、だいたいこのようにして「人間を外す」ことで成り立っている。機械化なんていうのはその最たる例だ。

 ここで、囲碁や将棋、麻雀のAIについて考えてみよう。これらのマインドスポーツにおいて、AIはもはや人間のトッププレーヤーに匹敵する実力を叩き出している。そして、これらのAIが、「人間を外して」構築されているのは言うまでもないだろう。これらのAIは過去の膨大な対局をもとに作られているわけだが、AIが実際にやっているのは「評価値の計算」だけである。しかし、この評価値の計算を、大量かつ高速にやってしまうのが機械たるAIであり、そこに棋風や雀風といった「人間的な」要素は一切入り込んでいない。そして、このことにより、所謂棋風やら雀風というのは、単なる思考の癖(バイアス)に過ぎないということも分かってきた。

 そもそも、人間は生き物であり機械ではない以上、全く同じことを寸分の狂いもなく延々と繰り返すようにはできていない。それこそプロ野球で最も制球力に長けた投手でさえ、同じ球種で同じような球速や変化を示す球を、同じ場所に投げ続けるということは到底できないだろう。球を投げるという動作は見た目以上に人体に負担をかけるので、当然疲労も蓄積するし、そうなってくるとベストコンディションからは遠ざかっていく一方である。仮に疲労の影響を無視したところで、球の握りやリリースポイントといった「物理的な初期値」を全く同じにすることはできない。本人は同じように握り、同じ位置で投げているつもりでも、僅かにズレているので結果的な球の軌道も変化する。これも人間が生き物であるからの話で、もっと言えばその「揺らぎ」こそが生き物の生き物たる本質である。

 

 纏めると、人間を外すということは、人間という生き物に由来する「揺らぎ」だとか、あるいは人間的な感情や思考、行動の癖を排除することにより、物事をシンプルな自然法則だとか、単純明快なルール・システムに帰結させるという流れに他ならない。言ってしまえば「単純化・一般化」である。

 そして、人間を外すという流れの反対にあるのが、所謂「寄り添い」であり、それはすなわち「個々の人間に対する最適化」であり「具体化」である。人間というのは社会的な生き物である以上、このスキルを身につけた個体がより生存競争において有利になり、結果として人間社会には欠かせない概念となったが、この「寄り添い」はある意味では非常に難しいもので、やり方を間違えたりするとあっという間に自分自身はおろか「寄り添う」相手すらも破壊しかねない諸刃の剣のようなものである。これについてはまた別途書くことにするとして、今は「人間を外す」ことについてだけ考えよう。

 

 人間を外すというのは、言ってしまえば「母なる偉大な自然の摂理(その最たる例が物理法則である)に従う」ということである。ここで、日本社会の2つの特質について考えたい。日本社会は非常にハイコンテクストな社会(すなわち、個々の人間に深く依存する社会)である一方、人間的な諸々を排したありのままの自然を尊ぶという文化が残っている社会でもある。この2つの一見相反する特質が共存しているのがこの日本という国の不思議なところであるが、今はそれよりもこの2つの特質の違いについて考えることにしよう。

 「和を以て貴しと為す」というのはこの日本国に古くから伝わる、言わば「常識の第1条」みたいな概念であり、この国のハイコンテクストな一面を象徴する言葉であるとも言われている。ただ、この概念を単なるハイコンテクスト性の象徴であるかのように捉えるのは、どうも一面的な解釈でしかないと考えられる。

 私に言わせれば、「和」というのは言ってしまえば社会の最適化であり、究極的なゴールとしては全体最適そのものである。そして、その本質は「母なる自然に従う」ことそのものであり、ここまで述べてきた「人間を外す」ということと同義であると考える。古の日本人は、地震や台風、火山噴火といった自然の脅威を現代人よりもはるかに畏れており、それゆえに自然そのものを神々として崇め奉るという文化を築いてきた。そしてそこに人間的な諸々は入り込む余地がないことを、古の日本人は肌感覚として理解していたのは間違いないだろう。いつしかそれは日本人にとっての共通認識(コモンセンス)となり、もともと「言わなくても分かることは敢えて言わない」という日本語という言語の性質も合わさって、以心伝心という言葉に象徴されるようなハイコンテクストな文化を生むことになった。その一方で「人間を外して」ありのままの自然を第一に考えるという思考の型もまた脈々と受け継がれていった。だから、この2つは元を辿れば同じところに行き着く価値観であると言えるだろう。大和心(大和魂)というのは、言ってしまえばここで述べてきた内容そのものである。

 

 先程、「和」とは究極的には全体最適そのものであると述べた。そして、大和心というのはその全体最適を実現するための思考の基本であるというのも、これまで述べた論に従えば自ずと明らかになる。本居宣長はこの「大和心」の対概念として「漢意」を定義し批判したが、私のこれまでの論をこれに当て嵌めると、漢意というのはまさに全体最適の逆である部分最適そのものになってくる。

 宣長儒教や仏教といった外来の思想を指して「漢意」と呼び批判した。その中で、(彼が生きていた江戸時代中後期当時の)仏教については神仏習合という形で日本古来の祖霊信仰と固く結びつき土着化していたという認識があったのでそれほど強く批判しなかったが、朱子学という原理主義的な形で当時の日本に入ってきて、いつの間にか社会を支配する思想となった儒教については特に強く批判していた。考えてみれば、儒教というのは中国大陸という自然の脅威が少なくそれ故に人口過多になりがちな土地で生まれた、究極的に個々の人間関係に依存する哲学・思考の型であり、言ってしまえば「人間を外す」という営みの反対に位置する流れである。宣長は当時の知識人の中では誰よりもこのことに深く気づいていたので、これを漢意と呼んで強く批判した。その一方で、これまで述べた「人間を外す」ことにより全体最適を目指す、日本に古くから伝わる価値観を再発見し、大和心とか惟神の道と名前を付けて、当時の日本社会に広めた。

 

 今回はここで筆を擱く。人間を外すというのは、実はこの日本においては、古くから特に意識されることなく自然と受け継がれてきた思想そのものである。そして、今の日本社会に蔓延る諸問題が、実は儒教的な権威主義に原因があるということについては、いずれまた書くことにしよう。