距離感と愛情、そして尊厳

 人との距離感というのは本当に厄介なもので、離れすぎてもいけないのは当然だが、近すぎてもいけないのはその通りである。俗な表現として「距離感がバグっている」というのがあるが、これは殆どの場合「人との距離感が近すぎる」という意味で、その結果馴れ馴れしさだとか鬱陶しさだとかを感じる。

 かく言う私も残念ながらこの通り「距離感がバグっている」と言われるたちである。別に悪意があって人との距離感を詰めすぎているわけではないのに、適切な距離感というのがわからなくて結果的に他人に迷惑をかけてしまうという、そういう意味では非常に損をする、残念な性格であると言えるだろう。自分としては嫌われたくなくてやっていることが、相手からしてみれば完全に裏目に出ているので、自ずと人が離れていくし、問題のある人物しか周りに残らなくなる。

 では、このような人との距離感について問題のある性格はどのようにして形成されるのかというと、実のところこれに関しては個々の事情というのがあるので一概にこうだと決めつけることは難しい。ただ、共通して言えることとしては、適切な距離感というものを身につける機会に恵まれなかったというのはあるだろう。というわけで、今回は自分の場合について内省を伴う自己分析をもとに考察してみる。

 

 思えば私は一人の人間として尊重される機会に恵まれないまま大人になってしまった。その原因が「毒親」であった義理の母にあるのは言うまでもない。彼女は私が何歳になろうと、私が家出を決行して物理的に距離を置くまで、ついぞ私自身を一人の人間として、歳相応に尊重するということをしてこなかった。彼女は私のことを何歳になろうと束縛し支配し続けていた。彼女による洗脳のもとでは、すべての行動が彼女の機嫌を損ねないという基準によって意思決定され、いつしか自分自身もそれに対して抵抗する意志が抑えつけられてしまっていた。当然そんな環境下では自分自身が一人の人間として尊重されるわけもなく、また自分自身もいつのまにか「自分の人生を生きる」という当たり前のことを忘れてしまっていた。勿論愛情や愛着についても同様で、親子の間に育まれる本質的な真心からの愛情なんてものは存在せず、結果的に愛情に飢えている状態が常態化していた。

 そういう前提条件において、自分のことを一人の人間として見てくれる他人というのは、願ってもない理想的な存在であり、もっといえば「神」のような存在であった。私はいつの間にかそういう人たちに対して、家庭をはじめとするリアルの人間関係では満たされない愛情や愛着を求めてしまうようになっていた。それが相手からしてみれば鬱陶しくお門違いなことであると気づくことなく。

 自分の人生を生きるということについても同じことが言えて、本来は人それぞれ別々の人生があり、それぞれの人生の主役はあくまでもその人自身であるのは言うまでもないが、私は無闇に距離感を詰めるという形で相手の人生を乗っ取るようなことをしていた。勿論相手からしてみれば不愉快なことこの上ないのは言わずもがなである。

 まとめると、これまでの私は家庭において満たされなかった愛情や尊厳を満たそうとするために、他人の人生にズカズカと土足で入り込み、踏み台にするようなことすら厭わない承認欲求のモンスターになっていた。そのような私自身の無礼な行いによって傷つけられ、離れていった人は数知れないし、つい最近までその性格が改まっていなかったのも認めざるを得ない。特に、親身になって寄り添ってくれた人に対して、いやそういう人であればあるほど、私のそのような気質が強く働いてその人を苦しめていたことに関しては、並々ならぬ恩義があるということもあって余計に罪悪感を感じている。

 

 ここまで自分自身のことについて、懺悔も交えて述べた。愛情にせよ尊厳にせよ、ありのままの自分自身を最も身近な人である家族に認めてもらい、肯定してもらうという経験に恵まれなかった人というのは、往々にして人格が歪んでしまうことが多い。そして、大人になってその人格的な歪みを矯正するのも並大抵のことではなく、そういう意味で「毒親とは縁を切っても切りきれない」と言える。社会を震撼させるような凶悪犯罪者には、少なからぬ割合でそういう「毒親育ち」が多く、そのような境遇故に人格が歪んでしまったこともあって社会的に恵まれず疎外されてしまった「無敵の人」と成り果て残忍な犯行に手を染めてしまうのは容易に想像がつくだろう。無論、ここで述べたことが「無敵の人」による蛮行を正当化するものではないということは言っておきたい。

 以上は極端な例だが、もっと卑近なケースとして、所謂パワハラおじさんとかお節介おばさんも、毒親育ちとまでは言わないが、一人の人間として尊重されずに大人になってしまった人たちの成れの果てであると言えるだろう。彼ら彼女らに共通しているのは、生まれてから今に至るまで、一貫して「何らかの入れ物」に入った人生しか歩んでこなかったという点である。別の言い方をすれば、彼ら彼女らは社会によって暗黙のうちに決められた「役割」を演じているに過ぎず、自分自身の人生を生きてこなかったとも言える。そして彼ら彼女らは、他人に対しても、自分と同じように「与えられた役割」を演じるように仕向ける。まるで出来の悪い演劇(ドラマ)のような構図だが、演劇は観る人たちがフィクションであると分かっている前提で、緻密に構成された脚本とそれに基づく役者の真剣な演技があるから面白いのであって、こういう独り善がりで一方的な「演技」の押し付けは、それがフィクションではないリアルの社会においては、控えめに言ってもただ興醒めなだけだろうし、もっと言えば不愉快そのものである。

 繰り返すが、人にはそれぞれ「自分自身の」人生があって、その主役は決して(家族も含めた)他人ではない。これは何も人を色眼鏡で見るような手合いに対してだけではなく、自分自身についても同様に言える話である。お互いが自分自身の人生を生きられるようにするためには、まずはありのままの自分自身を肯定的に認めたうえで、他人との関係を見つめ直し、適切な距離感を持つ必要がある。

 

 結論としては、ここまで述べてきたことは概ね「自分自身が尊重されることが適切な距離感のある人付き合いの礎となる」と要約できる。相互の尊重とそれに基づく適切な距離感は「親しき仲にも礼儀あり」というような、相互にとって持続可能な人間関係を維持するだけではない。もっと広く言えば、全ての人が誇り高く生きられるようにするために必要不可欠なものである。

 不遇な生育環境や過去のトラウマ故に健全な人格形成ができず、それが元で他人との人間関係に苦しんでいるのであれば、まずは自分自身を責めたり社会に責任を求めたりするのではなく、一度精神科や心療内科で適切なメンタルケアを受けることを、当事者として私は勧める。メンタルケアを通じて自分の過去に向き合いつつ、日々を有意義に過ごすという「凡事徹底」の精神で脳内のS/N比を正常化することで、自ずと自尊心やそれに基づく他者への尊重も育まれ、持続可能な人間関係を維持できるだろう。

 今回は一旦ここまでとするが、「全ての人が誇り高く生きられるようにする」というのは、今後も幾度となく掘り下げていきたいと思う。これは今後の人類社会の大きなテーマになるのは間違いないだろう。